魔王だった私が令和日本のブラック企業に転生したら社畜になった件

パパレモン

第1話 魔王、満員電車に乗る

 暗黒の玉座が砕け散る音が、魔王城全体に響き渡った。


「ぐっ……」


 魔王アスタロト、それが私だった。膝をついた私の前には聖剣を構えた勇者が立っている。その背後には、傷だらけになりながらも勇者を守ろうとする仲間たちの姿があった。


「なぜだ……なぜ貴様らは、そこまで……」


 私の声が震える。3000年の生涯ではじめて感じる、この感情は何だ? 


「違う! 真の強さは支配じゃない。人と共に歩むことだ!」


 勇者の言葉が、崩れゆく玉座の間に響く。


 私は振り返った。そこには私の四天王たちが立っている。炎魔将軍えんましょうぐんベルゼブブ、氷結姫ひょうけつきリリス、雷帝らいていゼウス、影魔えいまバルバトス。彼らは私の絶対的な力に従い、恐怖によって支配されてきた部下たち。


「私のために……死ね!」


 いつものように命じた。だが……


 四天王たちの目に、一瞬の躊躇ちゅうちょが見えた。それは今まで見たことのない表情だった。恐怖に支配されているはずの彼らが、なぜ……。


 その時、勇者の仲間の1人が叫んだ。


「勇者様! 危ない!」


 崩れる天井から巨大な瓦礫がれきが落ちてくる。勇者の仲間たちは、誰に命じられるでもなく、勇者を守るために飛び出した。


 なぜだ……なぜ私の部下は躊躇し、奴の仲間は進んで……。


 その瞬間、私の胸を聖剣が貫いた。


「ぐあああああ!」


 激痛と共に、私の意識が遠のいていく。最後に見えたのは、勇者の悲しげな瞳だった。まるで、敵である私の死を悼んでいたんでいるかのような……。


 暗闇の中で、声が聞こえた。


「お前には現世で学ぶべきことがある」


 目の前に現れたのは、光り輝く女神だった。


「支配ではなく、共に働き、共に生きることの意味を学ぶがよい」


 女神の言葉と共に、私の意識は完全に闇に沈んだ。


 ジリリリリリ!


 けたたましい音が鳴り響く。


「うるさい……」


 私は……私? 


 重いまぶたを開けると、見慣れない天井があった。白い、ただの白い天井。魔王城の荘厳な天井画とはまるで違う。


 体が重い。なぜこんなに疲れているのか。そして、この耳障りな音は何だ?


 手探りで音の発生源を探る。枕元にある四角い板のような物体。触れた瞬間、不思議なことが起きた。


 ……佐藤一郎。


 突然、頭の中に名前が浮かんだ。これが……私の名前? いや、違う。私は魔王アスタロト……。


「何だこれは……私は確かに魔王アスタロトのはず……なぜこのような姿に?」


 混乱する頭で状況を整理しようとする。最後に覚えているのは、勇者との戦い、そして女神の言葉。


「お前には現世で学ぶべきことがある」


 転生……そう、これは魂の転移、別の肉体への転生というわけか。魔界でも伝説にはあったが、まさか自分がその身に受けるとは。ならば、この体は……。


 ズキッ。


 頭痛と共に、記憶が流れ込んでくる。断片的で、まるで他人の人生を早送りで見ているような感覚。


 小学校の入学式。母親に手を引かれて歩く小さな男の子。大学の卒業式。就職活動。そして……。


「ダークネス商事……営業部……」


 口から勝手に言葉が漏れる。これは、この体の記憶か。


 ゆっくりと体を起こす。部屋を見回すと、壁にかけられたスーツ、机の上に置かれた社員証。そこには確かに「佐藤一郎」と書かれていた。


 鏡に映った姿は、黒髪の冴えない男。目の下にはクマがあり、明らかに疲労が蓄積している。


 これが、私の新しい姿か。


「ん?」


 ふと胸元に手をやると、そこにはがあった。まるで何かに貫かれたような……しかし、魔王時代の記憶にこんな傷はない。聖剣に貫かれた傷とも違う、もっと古い、深い傷跡。


 そして、佐藤一郎の記憶にも、この傷の由来はなかった。


 考えている暇はなかった。スマートフォン――そう、この音を発している機械の名前も自然と頭に浮かんだ――の画面を見ると、7時45分の文字。


 同時に、体が勝手に反応した。


「しまった! 遅刻する!」


 この体の習慣か、それとも刷り込まれた記憶か。とにかく会社に行かなければという強迫観念に駆られる。


 慌ててワイシャツを着込み、ネクタイを締める。手が勝手に動く。この現代社会の衣服というやつは、なんと窮屈なことか。魔王の威厳ある黒衣が懐かしい。


 アパートを飛び出し、駅へと走る。改札を通り、ホームへ上がると、そこには地獄があった。


 


 人、人、人。押し寄せる人の波。佐藤一郎の記憶が、まるで解説するかのように私の頭に流れ込んでくる。「これが現代日本の朝の風景、満員電車というものだ」と。


「どけ! 道を開けろ!」


 心の中で念じる。魔王時代なら、私の威圧感だけで道は開いた。しかし……。


 ドンッ!


「痛っ!」


 後ろから押され、前の人にぶつかる。誰も私の存在など気にしていない。むしろ邪魔者扱いだ。


 電車のドアが開く。人の流れに押されるまま、車内へと吸い込まれていく。


「ぐっ……」


 四方八方から圧迫される。身動き1つ取れない。これは……これは拷問か? 


 私の力はどこへ行った? わずかに残った魔力で、せめて周りの人間を動かそうとする。しかし、疲れ切った彼らの顔を見ていると、なぜか力が入らない。


 みんな、死んだような目をしている。まるで魂を抜かれたかのように。これが……これが現代社会の戦士サラリーマンたちの姿なのか。


 30分の地獄を耐え抜き、ようやく新宿駅に到着。人の波に流されながら改札を抜け、オフィス街へと向かう。


 そびえ立つビルの1つに、「ダークネス商事株式会社」の看板が見える。


 なんという皮肉な社名だろう。まるで魔界を思わせる名前ではないか。


 エレベーターで12階へ。営業部のフロアに足を踏み入れた瞬間……。


 ゾクッ。


 一瞬、懐かしい気配を感じた。上の階……社長室の方角から? いや、気のせいか。この疲れた体では、感覚も鈍っているのだろう。


「おはようございます」


 デスクに向かいながら、周りに挨拶をする。これも現代社会の儀式の1つだ。


 パソコンを立ち上げ、メールをチェックする。100通を超える未読メール。そのほとんどが、どうでもいい内容ばかり。


 魔王時代、私は絶対的な力ですべてを支配していた。部下たちは私の一言で動き、逆らう者は容赦なく消した。それが当然だと思っていた。


 しかし、今朝の満員電車で思い知らされた。


 


 いや、そもそも私には、もう人を動かす力などないのだ。この平凡な、佐藤一郎という男には。


「佐藤! おせーぞ!」


 怒鳴り声が響く。営業部長の黒田だ。小太りの中年男性で、パワハラが趣味のような人物。


「すみません」


 頭を下げる。魔王が人間に頭を下げる。なんという屈辱……いや、これも学びの1つなのか。


 今日も、長い1日が始まる。


 魔王だった私の、社畜しゃちくとしての新たな人生が。

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