第6話 化粧水の記憶
「……あの、妻が……亡くなりまして。定期の……解約を、お願いしたくて……」
その声は虚ろだった。感情の芯を抜き取られたように、輪郭のぼやけた静けさが、電話越しににじみ出ていた。
泣いてもいない、怒ってもいない。けれど麻生にはわかった。この人はいま、大切な何かをなくした場所に、ひとり立ち尽くしている。
「ご連絡、ありがとうございます。奥様のご冥福を、心よりお祈り申し上げます」
その直後、電話の向こうがふっと静まった。沈黙のなかに、わずかな呼吸の音がある。
生きている証。それだけが、細く確かにそこにあった。
「……すみません、こんなことで……情けないですよね」
麻生は、誰にも見えない場所で首を横に振った。声に出せば壊れてしまいそうで、ただ心の中で、強く否定した。
「妻はね、毎朝、洗顔して、化粧水つけて……“今日も一日、がんばろう”って、鏡の前で笑うんです。小さな声で。それが、彼女の一日の始まりだったんです」
その一言が、麻生の胸の奥を深く静かに突き刺し、時間を止めた。
言葉ではなく、その光景が伝えてくる。日々の何気ない所作が、誰かの「命」だったのだと。
「だから、まだ洗面台に……洗顔と化粧水が置いてあって。蓋も、少し開いたままで……触れられないんです。そこだけ、時間が止まってて」
麻生は目を閉じた。画面もマニュアルも見ない。まるで、今そこに、奥様の洗面台があるかのように。
淡いラベンダー色の化粧水。柑橘の香る洗顔ジェル。白いタオル。少し折れた歯ブラシ。整えた髪、静かに流れる朝の光──そのどれもが、「今日も一日、がんばろう」という祈りだった。
「……まだ、匂いも残ってて。時間だけが……取り残されたみたいで」
沈黙が重く、けれどどこか温かかった。麻生は小さく頷き、ただそばにいるように息を合わせた。
それは、業務ではなかった。
それは、ただ一人の人間が、もう一人の心に静かに触れた時間だった
ー第六話 了ー
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