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 開演予定の時刻まであと五分もないというのに、右隣のブルーシートにはまだ人がいない。

 毎年のことだけれど、花火大会で、ひとりというのは、寂しい。傍目に見ればあわれだ。ひとりぼっちで、暮れなずんだ空と、空の色を反映して紺色に染まった淀川を眺めている。真っ青な淀川。こちらの目まで青くなりそうなほどの青色。それでも、人ごみの中にひとりで座っていると、なんだか心地の良い安心感を感じるときがある。どんな安心感といって、ちょっと説明しにくいのだけれど、たとえば、エレベーターが上の階へ行くとき、一瞬、ふっと体が軽くなる、あの感じ。あるいは、宙に身体を放り投げられて、けれど、一の半分秒間くらい空中で安定する、あの感じ。少し違うかもしれない。

 そういうときには目の前がぼんやりかすんで、たちまち頭の中に閉じこもってしまう。家を出る前、里親のお母さんと喧嘩したことを思い出す。久しぶりの激しさだったと思う。きっかけが何だったかはもう忘れてしまった。私もお母さんも途中から、喧嘩するために喧嘩していたようなところがある。それにしても最後に、もうこんな家出て行ってやる、バタン、ってドア閉めたのは、さすがにやりすぎだったかな。まあ、いいや。家に帰ってごめんなさいしたら、仲直りしてくれるかしら。

 お帰りは終了直後を避け、混雑緩和にご協力ください、とのアナウンス。

 ひとりでぼうっとしていると、眠たくなってくる。眠たくなってくると、寄宿舎のことを思い出す。いつも同じ。夢の中、私は寄宿舎の廊下を歩いていることが多い。

 優はいまどうしているだろう。優。私の親友で、たったひとりそう呼びたいと思える友達。同じ部屋だった子よりも仲がいい。優。元気でやってるといい。ひょっとしてこの花火大会を見に来ていたりして。帰りしなにあったらなんて言おう。お元気ですか、そうですか、お天気よろしゅう、それは結構、大きくなったね、お互い様ね、元気でやりなよ、それじゃあ、命あらば、また他日、バイバイ、なんて馬鹿みたい。やっぱり何にも言わないでいようか。

 そういえば、優から聞いた噂。あれは本当だったのだろうか。忘れもしない、夏の日の午後。校庭の隅の木陰に私を引っ張って行って、「あのね、柚葉、こういうことって、あんまり大っぴらに話すことじゃないと思ってね、それでこんな蒸し暑い外の中、あなたを校庭のはじっこまで連れてきたってわけ」。「何の話?」と私が聞くと、「あの、実はね、……こういうのってすっごく馬鹿らしくて冗談みたいに聞こえるかもしれないけど、全然冗談で言ってるわけじゃないの。だから怒らないでね。いい?」「うん」「実はね、この前の休暇日に私、映画館に行ったの。そしたらさ、隣の席に座ってた女の人の顔に妙に見覚えがあってね、ねえ、いったい誰に似てたと思う?」「さあ、そないなこと言われても、わからへんわ」「あなたよ! 信じられないかもしれないけど、でも本当なの! 鼻筋とか、口の形とか、顔の輪郭とか、ほんと、びっくりするくらいあなたに似てたのよ」「……つまり、何が言いたいのん?」「まったく、あんたったら鈍いわね。いい? あなたは私たちがどういう存在か知ってるわよね? 私たちは——」「ということは、その子は……」 優も私も口をそろえて、「柚葉のオリジナル!」

 優の言っていたことが本当なら、私はいままでに私のオリジナルと出会っていても良い気がする。とはいえ、優が噓をつくとも思えないから、これは難しい。

 寄宿舎といえば、いつも思い出すのが矢口先生のお話だ。矢口先生は、終業式の放送での校長講話の後や、それから歴史の授業中なんかでも(たとえば、私たちが問題を解いている間、窓辺に寄りかかって、よしなしごとを考えるような表情をしている先生の眼鏡の銀のフレームが、窓から斜めに差し込む日光にきらりと輝いたときなんかに)教壇に立つと、私たち一人一人を眺め渡してからこう言った。「……あなたたちはとても大切な目的のために生まれて来ました。ですから、来るべきときにその目的を果たすことができるよう、あなたたちは、何よりもまず自分の体を、心を、大切にしなければなりません。(心というのは脳神経のことですか、と誰かからの質問。しかし、すでに感極まっている先生の耳に、これは届かなかった模様)そして、君たちにはパパもママもいない、とある人は言うでしょう。けれどあなたたちは、誰が何と言おうとも、あなたたちが生まれることをある人が強く望んだ結果なのです。あなたたちは望まれて生まれて来ました。あなたたちが生れることを望んだ人がいる。これは尊い事実です。あなたたちは間違いなく愛の結晶なのです。この事をゆめゆめ忘れないように……」

 きーん、という間の抜けた電子音の後、「第五十六回淀川花火大会二〇四四、開演です!」とアナウンスの声。

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