【16】2025年9月15日/2025年11月6日/2025年11月22日①

 九月十五日。


 授業を終えるチャイムが鳴ると、悠は席を立ち、できるだけ目立たぬように教室を後にした。星野からの呼び出しがあるかもしれないから、用事は早く片付けておくに越したことはない。


 向かった先は、一階の隅にある写真部の部室。廊下の突き当たり、使われなくなった器具庫を改装したその小部屋は、昼間でも薄暗い。扉を開けると、湿った木の匂いと、古びたフィルムの甘い薬品臭が鼻をくすぐった。


 放り投げた鞄からフィルムを取り出すと、手作業で作った暗室に足を踏み入れる。外の光はすべて切り落とされ、赤い安全灯だけが室内に静かに漂っていた。手探りでフィルムをリールに巻き取り、現像液へと沈める。


 やがて、薬品の中で影のようだった像が、ゆっくりと輪郭を帯び始める。淡い灰色が濃くなり、ぼやけた線がはっきりと結ばれ、そこに閉じ込められた時間が立ち上がってくる。現像液を切り、水洗へ移すと、赤い光の中で滴が静かに落ち続けた。


 ここから乾くまでは少し時間がかかる。やることもないので暗室の扉を押し開けると、ちょうど廊下の奥から、写真部の顧問の先生がこちらに歩いてくるところだった。長く伸びた前髪の隙間から、相変わらずの穏やかな目がのぞく。


「珍しいじゃん、現像なんて」


 少し笑いながらそう言う声に、悠は視線を泳がせる。


「……まあ、たまには」


 そんな曖昧な返事しかできなかった。先生は壁にもたれ、腕を組んでこちらを見ている。


「ここに来るのもずいぶん久しぶりだよな。元気そうでよかった」


「ええ、まあ」


 差し出される言葉を、必要最低限で受け止める。向こうの用件がひと区切りついたのを見計らって、声を出した。


「……あの、三年B組の卒業アルバムの撮影って、もう日程決まってますか」


「え? ああ、決まってるよ。ちょっと待ってな」


 先生は奥の棚から分厚いファイルを取り出し、ページを繰って目を細める。


「……十一月七日。他のクラスも一緒だ」


「ありがとうございます。今年も、あのカメラマンですか」


「そうそう。毎年おなじみ、俺の教え子」


 もう耳にたこができるほど聞いた昔話が始まる。作り笑いを浮かべながら相槌を打ち、内心では別のことを計算していた。燈川高校の卒業アルバム撮影は、写真部OBのプロが無償で請け負うのが恒例だ。今年もそのままなら、"計画"は進めやすい。


「そろそろ乾いたころなんで、ちょっと見てきます」


 暗室に戻ると、ぶら下がったフィルムがかすかに揺れ、鈍い光を帯びていた。指先で慎重に端をつまみ、印画紙の一枚一枚を光にかざす。水滴が乾いた痕に、像がくっきりと立ち上がっている。


 そこにはちゃぶ台を挟んで肩を寄せ合う三人――廃工場の薄暗がりの中、悠と皓太、そして灯里が、何の憂いもない表情で笑っていた。思わず灯里の笑顔を指でなぞる。二度と戻らない日常が、写真の中では嘘のように無傷のまま、閉じ込められていた。


 暗室を出てそのまま帰ろうとすると、背中越しに顧問の声が追いかけてきた。


「なあ長瀬……お前、痩せたか?」


「そうですかね」


 振り返らずに答えると、ぽん、と肩に軽い衝撃が落ちた。


「ああ、なんかな。それに顔も疲れてるし……もし悩みがあったら、何でも言えよ」


 その手を払いのけ、ぶん殴りたい衝動がせり上がる。だが、寸前で飲み込んだ。


「……ありがとうございます。大丈夫です」


 悠は部室の扉をくぐり、廊下へ出た。


 大人はいつもこうだ。分かっているふうの顔をして、実際は何も見ちゃいない。善意を着飾って、自分を「いい人間」だと思い込みたいだけの、うすっぺらな虚構。吐き気がした。


 ポケットから携帯を取り出し、画面を点ける。通知欄に、星野たちの名はない。今日は呼び出しはなさそうだ。そうと分かれば、こちらには片づけるべきことが山ほどある。迷うことなく、皓太へ連絡を入れた。


『十六時にバス停集合』


『わかった。どこに行くんだ?』


『山』


『山? 何をしに?』


『山菜採り』


 その後も皓太から質問が飛んできたが、無視して歩みを進めた。


***


  二学期になっても、状況は何も変わっていなかった。灯里は相変わらず病室のベッドに横たわり、まともな会話すら叶わないまま。それでも、しばらくはほぼ毎日のように顔を出していた。けれど、さすがに両親の視線がきつくなり、今は週に一度だけに抑えている。


 星野たちも、何ひとつ変わらなかった。悠だけでなく皓太までもが、これまで以上に容赦ないいじめの標的にされ、日ごとに心がすり減っていく。


 ただ、ひとつだけ違ったのは、星野本人がほとんど手を下さなくなったことだ。教室の隅で腕を組み、取り巻きたちが笑い混じりに繰り返す悪意を、どこか冷めた眼で眺めている。その瞳には、勝者の余裕とも、退屈しきった捕食者の無関心ともつかない色があった。


 何があってそうなったのかはわからない。でも、もはやあんなクソ野郎の心の内など、知る価値もなかった。


 その状況で"計画"を進めるのは、正直、骨が折れた。計画――あの日、皓太と決めた、灯里を救う唯一の道。それは、三年B組の全員を殺し、灯里を汚した動画をこの世から跡形もなく消し去ることだった。


 山を下る途中、皓太が遠慮がちに口を開いた。


「なあ……もしクラウドとかにバックアップされてたら、どうする?」


 夕暮れの光はとっくに消え、足元は闇に沈んでいた。作業に手間取ったせいで、すっかり夜になっている。


「どうもしない。そういうやつも中にはいるだろうけど、取り出すにはIDとかパスワードが要るだろ。金井の携帯でわかったけど、持ち主が死んだら、それを突き止めるのはほぼ不可能だ。取り出せないなら、存在しないのと同じだ」


 唯一の例外は、警察や専門家が本気で調べる場合くらいだ。だが、の情報をそこまで掘り返すことは、まずないだろう。


「……本当に、こうするしかないんだよな」


 皓太が、まだギプスに覆われた右腕をゆっくりとさすりながら、小さくこぼしたので、ぎろりと視線を突き刺す。


「惚れた女がレイプされたんだぞ。それくらいやれるだろ」


 皓太はたじろき、それ以降、何も言わなかった。


***


 十一月六日。


 こんな僻地では、もう空気の色からして真冬の入り口で、朝は息を吐くたび白く濁り、校庭の土も霜に縁取られるようになっていた。制服の上から上着を羽織る姿が、廊下でも教室でも当たり前の光景になっている。


 午前中の授業を終え、教室は給食の匂いで満ちていた。ざわめきと笑い声が、金属のスプーンが食器を叩く音に混じる。そんな中、突然、椅子が大きくきしむ音がして、前の方から悲鳴が上がった。


「腹が……痛え……!」


 ひとりの男子が机に突っ伏し、腹を押さえて悶え始めた。その様子に周囲がどよめく間もなく、別の席でも椅子が倒れ、女子が顔を歪めてうずくまる。次々と、教室のあちこちで同じように腹を抱える姿が現れ、食器の音が途切れた。咳や呻き声が重なり、教室の中は騒然となる。


 皓太が落ち着きなく視線をさまよわせるのを横目に、悠はただ一点、星野を射抜くように見据えていた。大柄なゴリラは面食らったように眉を上げてはいるものの、腹を押さえる様子はない。くそ、外したか。だが構わない。今日の狙いは別にある。


 騒ぎはすぐに広がった。慌ただしく先生たちが駆け込み、救急車のサイレンが校舎の外から近づいてきた。担架が運び込まれ、男女合わせて十二人が次々と搬送されていった。


 三年B組の生徒は二十五人。灯里を除けば二十四人。そのうちの半数が、病院に搬送された計算になる。教室に残った者たちも、何が起きたのか理解できず、互いの顔を探るように目を合わせていた。


「参ったな。明日は卒業アルバムの撮影だってのに……」


 昇降口の前で、救急車を見送る宮本先生がそうぼやいているのが聞こえた。


 幸い――いや、計画の筋書き通りに、腹痛は拍子抜けするほどあっさりと収束した。数日も経てば症状は消え、翌週にはほとんどのクラスメイトが何事もなかったように席へ戻ってきた。診断は自然毒疑いの胃腸炎、ということらしい。ただ、授業の進行は大きく遅れ、予定されていた卒業アルバムの撮影も中止のまま宙に浮いた。そして、ある朝のこと。


「三年B組の卒業アルバム撮影は、日を改めて十一月二十二日に行います」


 黒板前に立つ宮本先生の声が教室に落ちるや否や、四方から不満の声が上がった。二十二日は土曜日。休日を潰されることへの反発が、机を小さく叩く音やため息に混じって広がっていく。


「写真家の方の予定がどうしても合わなくて……この日しかダメだったんです。申し訳ないですが、午後の少しだけ登校してくださいね」


 先生が両手を広げて宥めても、あちこちからぶつぶつと不満が漏れる。それを聞きながら、悠は、胸の奥で笑いがこみ上げそうになった。平日の予定など、そう簡単に動かせるものじゃない。日程のしわ寄せがこうなるだろうということは、最初から読めていた。狙い通りに物事が進む手応えが、心の奥をくすぐる。


 計画は、今のところひとつの狂いもなく、予定通りに進んでいた。


***


 十一月二十二日。


 朝から、粉のように細かな雪が空から舞っていた。予報より早い降り出しに一瞬だけヒヤリとしたが、本格的に降るのは夕方かららしく、登校には差し支えない程度の雪だった。


 土曜日の校舎は、普段とはまるで別物だった。廊下に響く足音も、人の声も、この三年B組のものだけ。教室の窓から見える校庭には、うっすらと白が広がりはじめていて、その向こうに並ぶ他の教室の窓は、すべて暗く閉ざされている。今日この学校にいるのは、灯里を除く二十四人と、担当教諭の宮本先生だけだった。


 室内は落ち着きとは程遠く、まるで檻の中の群れのようにざわめいていた。谷川が大きな身振りで不満をぶちまけ、それに相槌を打つ声があちこちから飛ぶ。カメラマンが到着するまでの空白の時間を、誰も静かにやり過ごそうとはしない。黒板の前のスペースには、早くも数人が集まり、は 机を寄せてカードゲームを始めるやつもいる。窓際の席からは、雪が強まったのか、白い粒が街路樹をかすめて舞い落ちるのが見えた。


「……あれ? なんか、携帯つながらないんだけど」


 ふいに、村岡が首を傾げながらつぶやいた。その声に、近くの席からも反応が返る。


「ほんとだ、電波は立ってるのに」


「なんで? 圏外じゃないよな」


 机に肘をつきながら画面を覗き込む者、立ち上がって窓際へ移動する者。視線が一斉に手元の携帯へ向かい、指先が慌ただしく画面を滑っていく。


 その光景を視界の端で確かめると、悠は立ち上がった。椅子の脚が床を擦る音を、他の声がかき消す。誰の目にも留まらぬよう、足音を殺して廊下へ出る。ドアが静かに閉まると、ざわめきは一気に薄れていった。


 階段を降り、一階の昇降口へ向かうと、扉の前で宮本先生が肩をすくめて立っていた。外から吹き込む冷気に、時折身をぶるっと震わせている。


「カメラマンの方、まだいらっしゃらないんですか」


 声をかけると、先生は小さく身を揺らし、こちらを振り返った。


「ああ……まだ来ないんだよ。もう時間は過ぎてるんだけどね」


 そう言って、また視線を外へ戻す。並んで立つと、ガラス越しの空は白く濁っていた。


「お忙しい方ですからね」


「そうか、長瀬は写真部だから、会ったことあるのか」


「はい。連絡先も教えてもらって、たまに撮り方を教えてもらったりしてました」


「なるほどね……長瀬にも、ちゃんとそういう居場所があったんだな」


 その口調がやけにしみじみしていて、思わず横顔を見た。


「先生さ……長瀬のこと、ずっと気にしてたんだよ。クラスにも馴染めてないように見えたしな。何とかしてやりたかったんだけど、先生も力不足で……悪かったと思ってる」


 頷きながらそう言う宮本先生の顔を、悠はじっと見つめた。視線が穴を開けるみたいに重くなる。数秒の沈黙が落ちたあと、低く言葉を放った。


「……今さら、何言ってんだよ」


 その瞬間、先生の目が大きく見開かれる。


「何を、きれいにまとめようとしてんだよ。クラスに馴染めなかった? 違うだろ。あんたは知ってたはずだ。金井も、俺も、星野にいじめられてたことを。気づいてて、何もしなかった。違うか?」


 吐き捨てるように続ける。


「何とかしてやりたかった? そんな気持ち、これっぽっちもなかっただろ。勝手に自分を美化するなよ。『見て見ぬふりしてました』って、そう言えよ」


 冬の冷気よりも冷たい空気が、昇降口に沈んだ。宮本先生はバツが悪そうに視線を外に向ける。


「まあまあ……落ち着けって。早くカメラマン来ないかな。これ以上遅れたら、雪が本格的に降ってきちまう」


「……来ませんよ」


「え……?」


「来ないです。昨日のうちに、こっちからキャンセルの連絡を入れました」


「な……」


「三年B組に、卒業アルバムなんていりません。だって今日、このクラスは……全員、死ぬんですから」


 次の言葉が返ってくるより早く、悠は勢いよく右手を宮本先生の腹に押し当てた。掌に伝わるのは、温かく湿った層を、ぐにゃりと破っていく感触。


「ぐぅ……」


「先生。今までありがとうございました。……そして、さようなら」


 静かに言葉を落とし、右手をゆっくりと引き抜く。握られていたのは刃渡りの長いサバイバルナイフ。銀色の刃はすでに赤く染まり、滴る鮮血が床に不規則な模様を描いていく。


 宮本先生の身体がびくりと震え、腹を押さえる手が震えながら力を失っていく。膝が折れ、がくりと床へ崩れ落ちた。腹部にはぽっかりと赤黒い穴が口を開け、そこから温かい血が勢いよく溢れ出し、周囲に飛び散る。顔は蒼白に変わり、瞳孔が開ききったまま、必死にこちらを見上げてくる。その目は、恐怖と理解不能な現実が混ざり合っていた。


 ……まだ死なないのか。そんな考えがよぎり、再びナイフを握り直す。胸元へ突き立てると、途中でガリ、と硬い感触が刃先を止めた。肋骨だ。迷わず柄をひねり、金属をこじ開けるようにしてさらに押し込む。


 先生の身体が弾かれたようにのけぞり、そのまま背中から床へ倒れ込んだ。血潮が脈打つように溢れ、温かい雫が頬に飛んでくる。そして、そのまま、動かなくなった。わずかな痙攣すらも消え、目は開いたまま、焦点をどこにも合わせず空を見つめている。


 これで、この学校にいるのは三年B組の生徒だけになった。もう後戻りはできない。悠は踵を返すと、急いで写真部の部室に向かった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る