第一幕
【1】2025年11月22日/2025年4月21日
シャッターを切るみたいに、世界が一瞬、無音になった。
教室の窓は粉々に砕け、陽の光が鋭い破片のように差し込んでいる。机は散乱し、床には倒れた観葉植物の鉢が割れ、黒い土とガラス片の間を鮮やかな赤い液体が、まるで絵筆を走らせたみたいに広がっていた。
足音をひとつ立てただけで、教室の空気がびくりと震える。周囲を注意深く見ながら、素早くポケットから銀色の弾丸を取り出し、カチリ、と銃に装填する。
銃口を上げると、それまでこちらを伺っていた生徒たちが、まるで蜘蛛の巣を破られた虫のように、ばらばらに飛び散っていく。机の下へ、廊下の奥へ、教壇の背後へ――誰もがその黒い穴から逃れるように。
悲鳴は止まない。誰かが泣いている。誰かが、誰かの名前を呼んでいる。
ふいに、ひとつの種が、音もなく土を割る瞬間を思い出す。あれは小学校の理科の授業だった。朽ちる種がある中で、ただ芽が出るだけでも奇跡なんだと先生は言った。けれどその奇跡の向こうに、いつか鋭い棘が育つことを、大人たちは教えてくれなかった。
深い胸の奥で、ずっと固く閉ざしていたはずの小さな種が、ぱきり、と音を立てた気がする。水も光もいらなかった。育てたのは、この世界に散らばる、すべての悪意だった。
片手をポケットからスマートフォンを引き抜くと、親指で画面を払うように滑らせた。再生ボタンを押した途端、歪んだギターの音が耳を裂く勢いで飛び出して、世界の音が少しだけ遠ざかる。
背中をつたって汗が落ちる。鼻の奥に、血の嫌な匂いがこびりついて離れない。舌の裏側にまで、ぬるい気配がまとわりついてくる。
――鼻栓、持ってくればよかった。
そう思って、首を横に振った。まあ、どうせこんな状況じゃ、何をどうしたって意味はないか。
黙ってスマートフォンを胸ポケットに滑り込ませ、そのまま両の手で静かに銃を構えた。流れているのは、Rage Against the Machineの「Killing in the Name」。ガラス片のきらめきが、まるで水面に散る光のように揺れている。教室という名の水槽の底で、
***
その半年前――。
地面に叩きつけられた瞬間、泥が唇をこじ開けて入り込んだ。ざらついた土が舌をなぞり、鉄のような血の味と、湿った腐葉の匂いがじわじわと広がっていく。
背中に重みが乗る。誰かの靴だ。たぶん
「悪りぃ、踏んじゃった。犬のフンかと思ってさ」
星野が笑うと、ほかの連中もそれに続いた。女子のくせに男子より声がでかい
「しゃべってみ? どんな味?」
星野がしゃがみこみ、頬を指先でぴしゃりと叩いた。喉の内側がじんわり熱くなる。咳か、嗚咽か、あるいはそれすらも見分けがつかない何か。
「は? 泣いてんの? うわ、マジでキモいんだけど。……ほんと、終わってんな、お前」
星野たちの笑い声が、校舎の壁に跳ね返って歪んだ音を立てる。
「あーあ、つまんねえ。もう帰ろうぜ。今日もウチ来るだろ? 親父がまたどっかから良いモン仕入れてきたっぽいし。」
星野はちらりと周りの仲間に目をやりながら、再び靴底を背中に押し付け、底についた泥を遠慮なく擦っていく。
「やったー! この間のケーキ、まじ美味かったよね」
くすくすと薄笑いを漏らしながら、星野と取り巻きたちはぞろぞろと消えていく。遠ざかる背中をぼんやり追いながら、悠はゆっくり肘をつき、重い体を引き起こした。
口の中にはまだ、あの鉄のような味が張りついていた。血と泥と、誰にも見えない恥の味。顔を上げると、空だけは何事もなかったかのように青く澄んでいた。
世界は、平等なんかじゃない。
そんなこと、小学生のときにもう気づいていた。人間は群れで生きる動物だというけれど、どんな群れにも蹴落とされるやつがいる。たぶん、どこのクラスにも、会社にも、ひとりはいるんだ。笑い者にされるやつ、陰口を叩かれるやつ、無視されるやつ。そういう役割が、自然と発生するように、世の中はできている。
そしてそのお鉢は、順番に回ってくる。今は、それが自分の番だってだけだ。ただ、それだけのことだった。
ゆっくりと、泥の中から体を起こす。足元に転がっていたカバンを引き寄せて、チャックの隙間から恐る恐るのぞき込むと、あの大切な黒い影が覗いていた。金属とガラスが詰まった塊――レンズを守るようにして入れた、あれ。壊されなかったことに、深く胸を撫で下ろす。
ポケットに手を突っ込んで静かに歩き出そうとしたそのとき、足元に踏みつけられた小さな花が目に入った。
誰かが植えたものか、それとも風に運ばれて勝手に咲いたのかはわからない。けれど、こんな場所で、こんなふうに潰されるなんて、きっと思ってもいなかったはずだ。
痛むわき腹を押さえながら、膝をついて身をかがめる。花びらについた泥を、指先でそっと払ってやる。倒れた茎を起こし、元のかたちに戻そうとしてみる。もう駄目かもしれない。でも、踏みにじられるのは、一人だけでいい。これくらいのことは、してやりたかった。
星野たちの姿が見えないことを確かめながら、人気のない校門を一人ですり抜ける。けれど、そのまま家へ向かう気にはどうしてもなれなかった。帰ったところで、迎えてくれる人もいないし、胸の奥に張りついたこの重たい感情を、そのまま家に持ち込むのは嫌だった。
自然と体が向かうのは、学校の裏手にあるフェンスの穴を抜けた先、舗装も剥げた細い裏道。乾いた土を踏みしめる音が、やけに響いて聞こえる。
目的地の建物は、見るからに古びた廃工場だ。もう十年以上前に閉じられた缶詰工場。中には重機の亡骸が置き去りにされ、ガラスは割れ、壁は落書きだらけだ。けれど、だからこそ人が来ない。学校から近いのに、誰もこの場所を知らないみたいに、忘れたふりをしている。
裏手のゴミ捨て場の足場につま先をかけて、割れかけた窓の隙間に体を滑り込ませる。薄暗い通路を進んでいくと、奥の広間にふたつの影が見えた。
「……悠!」
「また……やられたの?」
答えずに、ほんの少しだけ首を縦に振って、その大きな瞳を見つめ返す。その後ろから、
「星野か」
また、小さくうなずいた。
「ああ。星野に、村岡に、
「最悪だな」
皓太はそれ以上何も言わなかった。ただ、手に持っていたペットボトルの水を差し出し、床にあったボロ布で泥を払ってくれた。
灯里と皓太は、しばらく言葉を発せずにいた。ゆっくりと廃工場の奥へと歩を進め、床に無造作に置かれた座布団に腰を下ろす。斜めに置かれたちゃぶ台の脚を足先で軽く引き寄せて、飲み掛けたペットボトルを置いた。全部粗大ゴミ置き場から拾ってきたやつだ。役に立たないと見なされて放られたものばかり。それにどこか親近感を覚える。
埃っぽい空気の中で、三人ともいつの間にか同じように膝を抱えて座り込んでいた。遠くで鳴るチャイムの音がやけにくっきり耳に残る。誰かが近づいてくる気配もない。どこにも居場所のない、三人だけの場所。
「やり返すべきだと思う?」
沈黙に耐えきれなくなって、頭の中にあった言葉をそのまま口から投げた。灯里は何も言わない。口を開きかけて、すぐに閉じた。皓太の床に置かれた拳が、少しだけ震えている。
「……やり返したら、次はもっとひどくなるだけだろ」
皓太の声は、かすれた紙みたいに乾いていた。
「わかってるよ、そんなこと……でも」
言いかけた瞬間、胸の奥で何かがきしむ。言葉が喉の奥で引っかかって、うまく形にならない。
でも、どうしてもこのままじゃいられない。殴り返したい。笑い飛ばしたい。あいつらの顔を、同じように歪ませてやりたい。そんな想いが、爪の間に入り込んだ泥みたいに、しつこく心を苛立たせる。
「やっぱり、ちゃんと先生に相談したほうが――」
「もうしてるさ、何度も。学校は、自分たちに都合の悪いことはなかったことにしたいんだよ」
灯里の言葉を、つい遮ってしまった。悪いと思いながら、それでも口に出さずにはいられない。だって、それが事実なのだから。担任の
「ムカついて仕方ないんだよ。頭の中、ずっとぐるぐるしてる。あの笑い声とか、顔とか……。何もなかったみたいに過ごすとか、無理だろ」
絞りだした言葉に、皓太が小さくため息をついた。視線を床に落としたまま、ぽつりと答える。
「わかるよ。俺だってムカついてる。でも……あいつらに手を出したら、もう終わりだ。先生たちも守ってくれないし、最悪、学校にいられなくなっちまう」
「あの"カナヅチ"みたいにか?」
そのあだ名を口にした瞬間、灯里がピクリと反応した。横から非難めいた視線が突き刺さり、思わず鼻の頭をかいてごまかしながら、訂正する。
「
「ああ、あいつらならやりかねないだろ」
「じゃあ、ずっと黙ってろって言うのかよ」
声が思ったより大きく響いて、廃工場の鉄骨がかすかに軋んだ。答えなんて、最初からないことくらいわかっていた。やり返す力もなく、助けの手も差し伸べられないまま、ただ一方的に傷つけられていく。
それでも、限界がくるその瞬間まで、歯を食いしばって耐えるしかなかった。群れから外れた者が辿る道は、どこでも同じだ。どの学校でも、どの社会でも、きっと――。
「……やり返すことは、できないかもしれないけど」
灯里がふいに顔を上げた。長い髪が肩からすべり落ちる。少し赤くなった目が、まっすぐこちらを射抜くみたいに揺れていた。
「それでも……別の方法なら、あるかもしれない」
「別の方法って、何だよ」
皓太が低い声で聞く。灯里は一度、唇に軽く歯を立ててから、ぽつりと言葉を落とした。
「星野が今までやってきたこと……その中に、本当にやばいことがあるはず。学校も見て見ぬふりできないような、世間に広まったら大ごとになるようなやつ。それを見つけて、暴けばいいの。そうすれば、少なくとも、あいつがここに居続けるのは無理になる」
「そんなやばい話、何か心当たりがあるのか?」
悠が聞いても、返事はすぐには返ってこなかった。廃工場の高い天井、その隙間からこぼれる陽の光が、灯里の横顔を淡く照らしている。無表情にも見えるその顔が、何かを押し殺しているようにも映った。
「まだ確証はないの。でも、もし本当だったら……星野を、ちゃんと社会の場で裁かせることができる――」
灯里はそこで言葉を切った。代わりに、廃工場の入り口で風が鉄板を叩く、乾いた音がして、三人は一瞬だけそちらへ目を向ける。
星野が隠している、やばい事。そんなものが、もし本当に、あるのだとしたら。口をつぐんだままの灯里を横目に見ながら、胸の奥で何かが静かにざわついた。まるで、濁った水の底に足を踏み入れたときのような、見えない不安がじわじわと広がっていく感覚。
言葉にできないそのざらつきが、息の奥にひっかかったまま、なぜか消えてくれなかった。
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