覚悟
食事を終えた後、瑞貴は着替えて神社まで一人で歩いて行った。今日も良く晴れていて絶好のレジャー日和だ。神社の境内には参拝客も多く、活気づいている。特に宛てもなくフラフラと歩いていると、吏に声を掛けられ、明日の巫女舞奉納の準備を手伝うことになった。
「そういえば瑞貴、悠花さんのお墓、教えてもらった?」
「いえ……」
「もう、千歳ったら、そのくらい伝えてから帰ればいいのに。気が利かないわね。あとで一緒に行きましょう」
確かに、千歳から滞在中に墓参りに行くようには言われたが、場所までは教わっていなかった。
巫女舞の観覧席に椅子を並べたり幕を張ったりするのを手伝って、瑞貴はだいぶ汗をかいた。
母親の墓参りに行けたのは、その日の午後だった。吏の案内で、神社から駐車場へと下る山道を、瀬尾稲荷より手前で右に逸れ、獣道のような細い道を進む。山道の分岐は目印もなく、慣れていないと見過ごしそうだった。たとえ千歳から口頭で教わっていても、一人ではとても辿り着けなかっただろう。墓は見晴らしの良い山の中ほどにあった。いくつかの墓石が並んでいたが、すべて上条家の先祖代々の墓だった。その中には、先代の宝珠、祀の墓もある。
瑞貴の母親の悠花の墓には、おそらく昨日、千歳が供えていった花が、瑞々しいまま残っている。瑞貴は初めて、母親の墓前に手を合わせた。朝に見た夢が思い出される。悠花は、瑞貴にメッセージを伝えに来たのだろうか、それとも、あれは瑞貴の願望だったのだろうか。母親は、瑞貴の宝珠が現れた右手を握ってくれた。
すべての墓を掃き清め、悠花と祀の墓前に線香をあげて、二人が墓を後にしようとした時だった。通ってきた獣道に、
「あら、雪絵さん」
吏が声をかける。雪絵はもじもじしながら、瑞貴をちらりと見た。雪絵が狐だったと分かった今でも、その仕草は本当に人間にしか見えない。
「あの……、宝珠の坊ちゃん。昨夜はごめんなさいねぇ」
「雪絵さん、困りますよ、本当に。貴女と
吏が雪絵を
「
慌てて雪絵は弁解を始めた。
「宝珠の力を独り占めしようだなんて、浅はかもいいところさ。今回のことは、山の神さんや遣いの狼たちにも報告しておくよ」
雪絵はしおらしくうなだれてそう言った。どうやら、雪絵が瑞貴を沼の蛟に喰わせようとしたわけではないようだった。妖怪同士のコミュニティも複雑らしい。
「宝珠の坊ちゃん、お詫びにこれを受け取ってくださいまし」
そう言った雪絵の手には、黒い竹筒が握られている。護符に見せかけた木の葉を渡されて化かされたことを思い出し、瑞貴は警戒する。
「雪絵さん、それはもしかして……」
吏が驚いた声を出す。
「ええ。うちの秘蔵の忍びでございます。きっと、宝珠の坊ちゃんのお役に立ちますよ」
竹筒を瑞貴の前にずいと差し出して、雪絵はにっこり笑った。吏は少し渋い顔をしながら、瑞貴の方を向いた。
「瑞貴、それは
クダギツネ、と言われても、瑞貴はポカンとしていた。竹でできた水筒のような竹筒は、側面が黒く塗られ、頂面と底面は朱で塗り分けられている。瑞貴がこわごわ受け取ると、雪絵は開けてみるよう促した。瑞貴が竹筒の栓を外す。ポン、と軽快な音がして、何かが二つ、飛び出してきた。
「狐……?」
竹筒から出てきた二匹の小さな狐が、元気よくピョンピョンと飛び跳ねている。
『
『主さま!』
「双子の兄妹、タカネとフウロです。まだ百二十年と若いですが、宝珠の坊ちゃんのお側にいれば、元気いっぱいに育ちます。人にも憑きますし、占いもできます。化けることもできるようになりますよ」
二匹の子狐は、宙返りをしたり、地面に穴を掘ったり、ちょこまかとせわしない。
「ちょっと、お前たち、落ち着いて」
「宝珠の坊ちゃんにきちんとお仕えするように言いつけてありますから、命じれば何でも言うことを聞きますよ」
だんだん雪絵はいつもの調子を取り戻してきて、にこにこと説明する。
「えっ、じゃあ、自己紹介して」
『はい、主さま。兄のタカネでございます。特技は人に憑くこと、好物は小豆でございます』
『はい、主さま。妹のフウロでございます。特技は声真似、好物は油揚げでございます』
二匹の小さな狐がちょこんと畏まって座って話す姿は可愛らしい。
「管狐は、
疑い深く吏が言うと、雪絵はほほほと笑う。
「もう妖力が弱いので、増える力はありません。この二匹は最後の子種で、大事に育てておりましたの」
戻るように命じれば竹筒に戻ると聞いて、瑞貴は管狐たちに戻れと命令した。すると、二匹はするすると細い竹筒に吸い込まれていった。
「それからね、宝珠の坊ちゃん」
雪絵はさらに愛想笑いを浮かべて、瑞貴に顔を寄せてくる。
「もしどちらかで、稲荷の狐に会うことがありましたら、秩父の雪絵が婿を探しているとお伝えください」
えっ、と瑞貴は雪絵の顔をまじまじと見る。婿ということは、あの灰色の狐の縁談ということか。
「娘の結の妖力も、もうだいぶ弱くなって、女子にしか化けられなくなっております。
妖力がなくなると、私どもは消滅いたしますので、と雪絵は付け足した。妖怪の世界も大変なんだな、と瑞貴は思った。瑞貴の頭の中で、今朝、夢の中で聞いた「必要なのは理解」という言葉が
雪絵の期待に添えるかどうかは分からなかったが、瑞貴は、努力します、と答えておいた。そして、吏と瑞貴は雪絵と別れ、山道を神社への帰路につく。雪絵は名残惜しそうに手を振って、二人を見送った。
秩父滞在の後半は、修行として主に早朝の
巫女舞奉納の当日は、神社の境内はかなりの人出だった。遠方から来る観光客も少なくないようで、外国人の姿もちらほらあった。この日はさすがに美弦も吏も晴海も忙しくしており、瑞貴は拓実や翼と一緒に、参拝客に混じって巫女舞を鑑賞した。独特で奥ゆかしい雅楽の音に合わせて舞う巫女たちはとても美しかった。
たった四日間で何かが身に着いたのかどうかは分からなかったが、瑞貴は、これまでの日常からはかけ離れた新しい世界を垣間見たような気がしていた。
最終日、朝の山駆けから戻った後、瑞貴は拝殿に呼ばれた。午前七時過ぎの境内はまだ人気もなく、静寂の中、鳥の
「瑞貴、座りなさい」
晴海の声は重厚で良く響いたが、厳しさだけではない、わずかな柔らかさを帯びていた。拝殿の中央には、白い
「四日間、少しは修行になったようだな」
瑞貴自身は、あまり実感はなかったが、晴海には何か感じるものがあるのだろうか。
「人ならざる者の狡猾さや凶暴さも身を以って味わっただろう。宝珠の力を得たからには、お前はますます精進しなければならない。夏休みには、またこちらに来て、修行を続けなさい」
晴海はそう言葉を継いだ。夏休みと言っても、部活以外には特別な予定もない。それに、晴海の言う通り、妖怪の恐ろしさを知ってしまった現在は、宝珠の力を少しでも使いこなせるようになることが急務のように思われた。瑞貴は素直に、分かりました、と答えた。
「瑞貴、お前は、神職に就く気はないか?」
唐突に、晴海は言った。その声音と眼差しには、意外にも優しさすら滲んでいる。瑞貴は晴海を見つめ、それから美弦の顔をちらりと見て、下を向いた。
「今は……まだ、分かりません」
瑞貴は正直な気持ちを告げた。晴海はその返答を聞くと、そうか、と頷く。その表情は、残念というよりむしろ、満足げに見えた。
「では、帰る前に厄を祓っておこう」
晴海は瑞貴一人のために祈祷を始めた。晴海の祝詞は朗々と響き渡り、それが一つの旋律のように耳に心地よく響く。神社で祈祷を受けたのは、中学受験の前と千歳の厄年くらいで、どんな様子だったかもあまりよく覚えていない。晴海の祈祷は力強く、張りのある声は体の隅々まで染み渡るようだった。最後に、玉串を捧げ、祈る。瑞貴は厳かな気持ちで顔を上げた。
祈祷が終わり、ピンと張っていた緊張が解けたように感じた時、晴海は再び口を開いた。
「ところで瑞貴、お前は祀様の飴色の花弁を持っているらしいな」
晴海から言われて、瑞貴はすっかり忘れていた
「これです」
そう言って、瑞貴は晴海の前に袋ごと差し出す。晴海はそれを手には取らず、確認しただけで頷いた。
「これを、皇居の河童が持っていたのだな」
「はい」
そして、踵を返すと、瑞貴について来るように言った。
連れて行かれたのは、神社の本殿だった。本殿は、拝殿の奥にある、神社の
本殿の中は薄暗く、中央には数段の朱塗りの階段が二つ連なっており、その高みに金の飾りのついた白木の扉があった。晴海は
「これは……」
「近づいて見てかまわない」
晴海に促されて、瑞貴は一つ目の階段を慎重に上る。茎の上で儚く揺れる二枚の花弁には、真ん中にそれぞれ『生』『死』と記されていた。
「それは先代の宝珠、祀様の遺した『
瑞貴は、手の中にある袋から、花弁を取り出した。確かに、真ん中に記された文字以外は同じものだ。
「花弁を茎に添えて、戻してやりなさい」
階段の下から、晴海が言った。瑞貴はそっと、花弁を茎に近づける。すると、花弁は元あったところへ還るように、すっと茎と一体化し、一瞬、花全体が幽かに光った。花弁は開いた状態だったが、その形は蓮の花に似ていた。
「祀様は、宝珠の力を容れる器を作ることで、宝珠の力を持った
宮乃介は、『継』の花弁を瑞貴に渡す時に、次の宝珠が現れたら渡すよう頼まれていた、と言っていた。七葉までを祀が錬成したのであれば、ここにある三葉以外のあと四葉がこの世のどこかに存在するということになる。
「祀様が次代の宝珠に何を期待されていたのかは分からない。散ってしまった七葉を再び集めることなのか、それとも、次代の宝珠が改めて失われた花弁を錬成することなのか。これは、新たに宝珠となったお前にしか解けぬことだ」
三枚目の花弁が加わって、凛とした八葉の花に、瑞貴は顔を近づけて見つめた。先代の宝珠である祀の力は、宮乃介も讃えていた。そんな強い力を持つ巫女でも、七葉までしか作れなかったものを、自分で錬成することなんてできるのだろうか。それとも、散り散りになっている花弁を探し当てれば良いのか。祀の成し遂げられなかったことを、瑞貴が引き継ぐことができるだろうか。
「八葉の花が完成しなくとも、お前の百五十年後には、また宝珠が現れるだろう。八葉の花は、あくまでも祀様の試みであったと聞いている。その意思を継ぐかどうかは、お前次第ということだ」
晴海の言葉は、瑞貴の不安を見透かしているかのようだった。瑞貴は何も言わず、ただ、八葉の花とその奥の高みにある閉ざされた扉に向かって一礼すると、階段を下りる。
「教えてくださって、ありがとうございました」
下で待っていた晴海と美弦のところに戻ると、瑞貴は晴海に礼を述べた。晴海は頷いた。その眼には、どこか慈愛のような感情が込められているように見えた。
その日の午後、瑞貴は秩父を後にして、一人で東京の家に帰っていった。その表情はいつになく精悍で、覚悟のようなものを秘めていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます