君が咲いた季節に恋をした

その柔らかな動きは、まるで遠慮がちな未来の気配のようで――

静かに、確かに、春がそこにいた。

「ねえ、月岡さん」

呼びかけられた声は、いつもより少し低く、少しだけためらいが混じっていた。

私は顔を向ける。

「なに?」

夏目くんは、何かを言い出そうとして一瞬視線を泳がせたあと、まっすぐこちらを見た。

「もし迷惑じゃなかったら、明日もここ、隣座っていい?」

その一言に、時間がすこしだけ止まった気がした。

言葉が、すぐには出てこなかった。

頭よりも先に、胸の奥がざわめいて、気持ちが追いつかない。

迷惑、なんてことあるはずないのに。

なのに、こんな簡単な言葉が、なぜか喉につかえて出てこなかった。

自分の心に問いかけるように、ゆっくりと考えて、それからやっと――

「うん。迷惑じゃない、よ」

そう答えた自分の声が、自分のものじゃないみたいに聞こえた。

どこかふわふわしていて、現実感がなかった。

それでも。

葵くんは、その言葉を聞いた瞬間、ふわりと目元を和らげた。

無意識のうちに、肩の力が抜けたような――そんな、安堵の表情だった。

その笑顔を見た瞬間、胸の奥に静かに火が灯ったようだった。

じんわりと、あたたかくて、けれど少しだけ痛くて。

誰かの隣にいること、誰かに求められることが、こんなにもやさしいなんて――

そんなふうに思った。

窓の外では、淡い夕暮れの光が教室の床に長く影を落とし、

風に揺れる桜のつぼみが、また少しだけ春に近づいていた。

けれど、しばらくして――

「……っ」

席のすぐ近くで、誰かがわざとらしく書類を落とした。中身が派手に床に散らばる。

見なくてもわかる。意図的だ。

教室の空気が、ピリついていた。

「なにあれ……あの月岡と話してる……」

「葵くんって、やっぱ変わってるよね……」

「関わらない方がよかったのに……」

囁き声が、棘のように耳の奥を刺す。

心が縮こまりそうになる。怖くて、申し訳なくて、やっぱりわたしなんかが彼の隣に座っちゃいけなかったのかもって、思いかけたとき――

「うるさいなぁ、みんな」

その声が響いた瞬間、空気がピリリと張り詰めた。

葵くんが、わざとらしく甲高い声を張り上げる。けれど、その調子は皮肉でも怒号でもなく、どこか軽やかだった。

それなのに、誰も笑わなかった。

「ぼくが誰と話すかなんて、自由でしょ」

その言葉には、遊びも冗談も混じっていなかった。

まっすぐで、ただ真実だけをそのままに言った、そんな響きだった。

途端に、教室がしんと静まり返る。

笑い声も、ひそひそ話も、パタパタと動いていた手元も――すべてが止まった。

誰も反論しなかった。

いや、できなかった。

夏目くんの声には、それを封じるだけの確かな力があった。

その沈黙の中で、彼はゆっくりとこちらを向く。

そして、わたしにだけ、そっと言った。

「……大丈夫?」

その声は、さっきの強い声とはまるで違った。

小さくて、やわらかくて、でも確かに胸に届く声だった。

私はすぐには答えられなかった。喉が、少し詰まっていた。

けれど、少しだけ息を吐いて、うなずく。

ほんの小さな動きでも、それは自分の中では大きな「返事」だった。

まだ、怖さはあった。

視線も、言葉も、無言の圧も、全部が少しずつ心に影を落としていた。

でも、夏目くんが隣にいる――それだけで、胸の奥にぽつんと明かりが灯る。

そして、昼休みを告げるアラームが頭の中で鳴った。

葵くんはそれに反応するように、何事もなかったかのように席につき、机にノートを広げた。

彼は、それ以上なにも言わなかった。

ただ、いつも通りに、隣で仕事をしていた。

わたしに気を遣うでもなく、特別に話しかけるでもなく。

まるで、それがごく自然なことだと言わんばかりに。

その姿が、不思議なくらい無理がなかった。

取り繕うことも、気張ることもない。

“庇う”でも、“特別扱い”でもなくて、ただ――“普通に”隣にいる。

きっと彼は知っているのだ。

その“普通”が、どれほどの救いになるか。

声を荒げることも、守るふりをすることもなく、ただ「そこにいる」ということの力を。

春の光が、オフィスの窓から斜めに差し込む。

ノートの上にできた影が、少しずつ動いていく中、私は息を吸った。

少しだけ、深く。


——仕事終わり。

教室に残る足音と机を引く音が、だんだん少なくなっていく。

わたしは静かに荷物をまとめて、立ち上がろうとした、そのとき。

「月岡さん」

背後から聞こえた声に、ぴたりと動きが止まる。

名前を呼ばれたのに、すぐに返事ができなかった。

不意を突かれて、心臓が一拍分遅れて跳ねる。

「え……?」

振り返ると、葵くんがそこにいた。

いつものような気だるげな表情ではなく、少しだけ戸惑ったように、後ろ髪を無意識に指でいじっている。

どこか照れくさそうで、それがなんだか――少しだけ、愛おしかった。

「ちょっと休日、どこかに出かけない? 行きたい場所があるんだ」

その言葉に、頭の中が一瞬、真っ白になった。

何かの聞き間違いかと思って、思わず聞き返しそうになったけれど、彼の真剣な眼差しが、それを否定していた。

「……えっ」

やっとの思いで漏れた声は、かすれていた。

今日一日、あんなことがあって。

まさか、こんなふうに仕事終わりに誘われるなんて、想像すらしていなかった。

「もちろん、嫌ならいいよ。無理にとは言わない。でも、なんか……今日のこと、ずっとこのままにしたくなくてさ」

彼の言葉は、やさしくて、まっすぐで、心の奥にすっと染み込んでくる。

“このままにしたくない”――その一言が、なぜだかとても大切に聞こえた。

胸の奥が、ふわりとあたたかくなる。

陽だまりのような、けれどまだ名付けられない感情が、胸の中で小さく息をしている。

わたしは、少しだけためらってから、そっと頷いた。

「……行く。ううん、行きたい」

その瞬間、葵くんの表情がふっと緩んだ。

さっきまでの迷いが晴れて、柔らかな光が差すような微笑みだった。

その笑顔を見たとき、不意に胸に風が吹いたような感覚がした。

知らない春風が、心の奥の扉をそっとノックするような――そんな風。

ふたりで並んで、オフィスの出口へと歩き出す。

夕陽が斜めに差し込み、長い影を廊下いっぱいに伸ばしていた。

その影は、寄り添いながら、ゆらゆらと床の上を揺れている。

「じゃあ、日曜日の9時に、時計台集合ね」

その一言で、胸が高鳴る。

どくん、と音がしたように、心臓が跳ねて止まらない。

もう、わたしの日常が、少しずつ変わり始めている――

そんな予感を胸に、春の夕暮れを、ふたりで歩いていく。


仕事終わりの号令が、誰の耳にも届かないくらい静かに鳴り終わっていた。

いつものように、私はオフィスの片隅で鞄を手に取り、誰とも目を合わせないまま廊下に出る。

オフィスのざわめきも、他人の笑い声も、私には関係ない。

ただ、自分のために描く。

スケッチブックの中だけが、私の呼吸の仕方を知ってくれていた。

校舎裏の階段を昇りきった先にある、立ち入り禁止の貼り紙がはがれかけた屋上。

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