第9話
「特に、華純のように過去の出来事を思い出したくない場合、夢がトラウマとなった出来事を無意識に引き出すんだ。夢は過去のトラウマを克服するために 見るものだから。もし、トラウマを忘れられないときは、その出来事が夢で繰り返し再現されるんだ」
野村先輩の言葉が静かに響いた。まだモヤモヤした感情が残っている。
「でも、華純はトラウマや夢を思い出したくないと、言っていましたか?」
ぼくは自分の胸の内を探るように、ゆっくりと言葉を紡いだ。どうしても心の中で先輩の問いが消えずにいた。
「もしそれがトラウマなら、思い出せるのでしょうか?」
野村先輩は静かに黙ったまま、しばらく外の風景を眺めていた。時間が流れ、キャンパスの木々が風に揺れる音が心地よく響いている。野村先輩の沈黙を包み込んでいるようだった。
「トラウマを思い出す心理療法は確かに痛みを伴う」
やがて、先輩は深いため息をついてから、ゆっくりと答えた。
声は低く、穏やかで優しさを感じさせた。
「むしろ、夢の中でトラウマの要因となった記憶に触れていく作業が、心の整理には必要な場合もある。ただ、それを完全に思い出せるかどうかは、本人のペースに合わせて進めるべきだ」
野村先輩の言葉が、まるで静かな湖面のように、ぼくの心に静けさをもたらしていった。先ほどの不安が、溶けていくような気がした。周囲の風景が、ただただ穏やかで、時間がゆっくり流れていることが、なんだかありがたく思えた。
「もしかしたら彼女は……いや、何でもない」
野村先輩が言いかけて、言葉を飲み込んだ。
「え? 何かわかったんですか?」
ぼくはつい、強く聞いてしまった。野村先輩が何か気づいたのなら、それを知りたかった。
「現時点では何とも言えない。ただの推測に過ぎないからな」
野村先輩の表情は、いつもの冷静さを保って、どこか考え込んでいるようだった。その言葉を聞いて、ぼくは肩の力を抜いた。野村先輩は何か大切なことを感じ取っているのかもしれないが、それでも焦る必要はないのだと思った。
部屋の中に冬の冷たい空気が漂っている。曇りガラス越しに見える外の景色は、白い雪に薄く覆われた山々が連なっていて、しんと静まり返っていた。リビングの小さなストーブが、微かな音を立てて部屋を暖めている。
「ねぇ、葵くん……」
華純がぽつりと声を上げた。いつものように座布団の上に座り、膝を抱えている。
「また、あの夢の話ですか??」
ぼくはコタツに足を突っ込んで、手元のノートを閉じた。気になっていた彼女の様子に注意を向ける。華純はしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。
「……夢で見た場所、どこか知ってる気がする」
華純の言葉に、ぼくは思わず息をのんだ。
「本当ですか?」
ぼくの問いかけに、華純は小さく頷いた。
「わからない。でも、見覚えがあるの。小さな鳥居と、湖みたいな場所が……」
言葉が途切れになり、華純は俯いたまま手をぎゅっと握りしめている。その様子に、何かが引っかかる。
「それってもしかして、君の故郷に関係があるんじゃない?」
何気ない言葉だったが、華純はハッとして顔を上げた。
「そうかもしれない……でも、わたしは……行くのが怖いけれど、どうしても行かなきゃいけない気がして」
その言葉には、揺れ動く感情が隠しきれていなかった。故郷の神社に行きたいという思いと、行きたくないという怖れ。彼女の中で葛藤しているのが伝わってくる。
「無理に行かなくてもいいです。夢に出てくる場所がどこか気になるなら、ぼくが一緒に探してみますよ」
華純はぼくをじっと見つめて、小さく頷いた。
「でも……」
華純は言葉を詰まらせた。
「もしそこに行って、何か思い出してしまったらどうしよう」
彼女の目に不安が浮かんでいるのがわかった。ぼくはそれを見て、自然と口を開いていた。
「怖かったら、ぼくが一緒に行きますよ。だから、大丈夫です」
どれだけ彼女の支えになるかわからなかったけれど、少なくとも彼女を一人にしたくなかった。
「……ありがとう」
華純はそう言って、ほんの笑った。
――週末、ぼくたちは夢の中の風景に似た場所を探すため、旅に出ることにした。電車に揺られて、車窓から見える景色を眺める彼女の横顔は、どこか緊張しているようだったけれど、それでも安堵しているようにも見えた。
「大丈夫ですか?」
ぼくが声をかけると、華純は小さく頷いた。
「うん。でも……本当にここでいいのかなって、まだ不安」
「夢の場所と完全に一致していなくても、進めばいいと思うよ。無理はしなくていいから」
彼女はぼくを見て微笑んだ。
やがて目的地に着いたとき、ぼくは彼女の隣で、広がる風景を見た。そこには湖があり、向こうには鳥居がぽつんと立っていた。夢の中の光景そのものだ。
「ここだ」
華純の声は震えていたけれど、目には迷いがなかった。
「行きましょう」
ぼくはそっと彼女の肩を押した。
一歩、また一歩と進み出す彼女。ぼくは華純の背中を支え続けることを心に決めた。
ぼくたちは電車に乗り、山を越え、しばらく歩き続けた。足元の砂利道はやがて草むらに変わり、冷えた空気が肌を刺すように感じられるころ、疲れが出てきた。
「そろそろ休みますか?」
ぼくがそう声をかけようとした瞬間、華純が立ち止まった。
彼女の視線は、ある一点をじっと見つめている。ぼくも彼女の隣で、目線の先を追った。
華純がぽつりと呟いた。ぼくの足は自然と止まる。目の前には木々に囲まれた古びた鳥居が立ち、静けさと共にどこか神秘的な雰囲気が漂っていた。
「この場所、夢で見たのと同じかもしれない」
華純の言葉は、まるで時間を凍らせるかのようだった。
静寂の中、鳥居だけが時間に取り残されたような存在感を放っている。奥にはさらに深い森が続いていた。
「同じって、どういうこと……?」
ぼくは彼女の横顔を見た。
華純は無言で鳥居をじっと見つめている。視線が彷徨っていた。
「わからない。でも、ここに来なきゃいけない気がしたんだ」
その言葉に嘘はなかった。ぼくは小さく頷くと、一歩先に進んでみた。足元の砂利が音を立てるたびに、ぼくの中で小さな緊張感が生まれる。
「華純、行きますか?」
振り返って彼女を見る。彼女は一瞬迷うような表情を浮かべたが、やがて息を吸い込むと、ぼくの隣に立った。
「そうだね。そろそろ行かないと」
彼女の声は震えていたけれど、決意が感じられた。
鳥居をくぐると、冷たく澄んだ空気が肌に触れる。何かが始まる予感がした。ぼくたちは無言のまま奥へと進む。風に揺れる木々の音が、まるでぼくたちの歩みに合わせて囁いているようだった。
「あれ?」
華純が足を止めた。視線の先には、苔むした墓石があった。ぼくは彼女の後ろから覗き込む。
その石碑をじっと見つめていた。彫られた文字が風化していて、一部しか読み取れない。それでも、そこに刻まれた名前が彼女を引きつけているようだった。
「たぶん、わたしの家族の名前」
そう呟いた瞬間、時間が止まったように感じた。ぼくは息をのむ。まさか、こんな形で華純の過去と繋がる場所に出会うなんて。
「本当ですか?」
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