第2話

   *


 星月夜に流星群が横切った。

 無数の星が次々と流れ、天が涙を零(こぼ)している幻想的な光景が広がっていた。その輝きはあまりにも美しく、言葉も出てこない程だった。現実の境界線が曖昧になり、まるで夢の中に迷い込んだようだった。

 ぼくは大学のレポートを中断し、星月夜の光景を見つめていた。開けっぱなしにした窓から冷たい風が入り込み、肌を刺すような冷気が部屋に漂っている。

 タブレットペンシルを置いて、流星群の動きに心を奪われていたのだ。

 夜の静けさが心地よかった。風が吹く音、アパートが軋む微かな音以外、聞こえない。誰もいないはずだった。

  ――そのとき、妙な違和感が生まれた。

 前触れもなく、唐突に“何かが足りない”という感覚が胸をよぎった。何だろう? さっきまであったものが、そこにない――いや、逆だ。“なかったはずのもの”が、いま、そこに“ある”のだ。

 ぼくはふと視線を外へ向けた。そして、見てしまった。

 道の真ん中に“それ”があった。

 人だ。

 少女が雪の上に倒れている。白い雪に群青のワンピースが映え、黒髪が夜の闇に溶け込むように広がっている。その姿は、まるで地上に舞い降りた天使のように見えた。心臓が一瞬、跳ねた。

「えっ……?」

 声が漏れる。足は自然に動き出していた。玄関に向かい、靴もろくに履かずに外へ飛び出した。冷気が全身を包み込むが、気にしている余裕はなかった。

雪を踏みしめる音が耳に響く。吸い込んだ空気が肺を刺すように冷たい。

 少女のもとに駆け寄り、肩を揺らす。

「えっと、大丈夫ですか……?」

 返事はない。彼女は雪に埋もれているはずだ。それなのに少女の温かさが、ぼくの手を通してじわじわと伝わってくる。

「聞こえますか? 今すぐ救急車を呼びますからね」

 慌てて彼女の肩を支え、そっと身体を起こす。顔がハッキリと見えた。長い睫毛が微かに震えている。

「……っ」

 小さな息が漏れた。彼女の瞼がゆっくりと持ち上がり、瞳が現れる。

 “青空”のような瞳だった。

 ただの青ではない。雲ひとつない晴天のような、どこまでも澄んだ青。ぼくは一瞬、息をするのを忘れた。その瞳が、真っすぐこちらを見つめている。吸い込まれそうなほどに透き通った目。彼女の唇がわずかに動く。

「……行きたくない」

 まるで吐息のような声だった。

「え?」

「病院……警察……行きたくない……」

 彼女は瞼をゆっくりと伏せた。まるで今にも消えてしまいそうな、儚げな声。ぼくは一瞬、理解が追いつかなかった。普通なら、倒れている人がいたらすぐに救急車や警察を呼ぶのが当然だ。けれど、彼女はそれを拒んでいる。

「な、なんで?」

 冷えた真冬の空気に裏返った声が響く。彼女は動かない。閉じた瞼がわずかに震えているだけだ。どうしよう。警察を呼んで保護してもらうべきか、それとも……。

 ぼくの胸に、ひとつの感情が生まれた。

――-この子は、ここにいちゃいけないんだ

 そんな感覚だった。理由も根拠もない。ただ、彼女のか細い声と、青空のような瞳が胸に深く突き刺さって、動けなくなった。どうしてだろう。彼女の言

葉が耳を離れない。

「……わかった。救急車も警察も呼ばない」

 気が付くと、ぼくは糸のような細い声を零していた。彼女は動かないままだが、その唇がわずかにほころんだ気がした。雪の中に咲いた一輪のゲッコウキスゲの花のように、ほんの小さな微笑みだった。

 ぼくは彼女を支えて、家に向かって歩き出す。重さはほとんど感じなかった。むしろ、温もりが心地よかった。雪を踏みしめる音が耳に残る。視線を落とすと、彼女の髪が揺れ、そこからふわりと何かがこぼれ落ちた。

 それは、小さな銀色の粒だった。雪に混ざり、すぐに見えなくなったけれど、確かに見た。あれは……なんだった?

 ふと、上を見上げる。さっきまで流れていた流星群は、すでに静まり返り、ただの夜の曇夜に戻っていた。

 そのとき、彼女の手が震えていることに気づく。冷たい風が通り抜ける中で、物思いに耽っている様子を見て、思わず少女の手を取ってしまう。

  ――人を助けずにはいられない性分だから、本当にこれでいいのだろうか。もし未成年を匿っていると大学の友達に発覚したらどうしよう。

 未成年誘拐の容疑で警察沙汰になる可能性が頭に過って、背筋が凍った。

 しかし、どうしても、この子を守らなきゃいけない。なぜだろう。こんなに心がざわつく理由がわからない。

 ――いや、本当は理由を知っている。そうだ、ただの見知らぬ少女ではない。

 ぼくは、何か深い繋がを感じていた。

 いまはわからないけれど。

 透明なガラス細工を扱うように優しく、少女をベッドに置いた。かじかんだ指先を電気ストーブで温めると、安堵したのか突然睡魔が襲ってきた。

 少女は、毛布に包まれて無防備に眠っている。まるで何も知らずに星の世界から降りてきたかのように、純粋無垢だった。


 しばらくして気が付いたら、朝日が顔を出していた。ベッドの淵で見守っている間に、ぼくは眠っていたようだ。

「ここはどこ?」

 少女は目を覚まして不安げに周囲を見渡した。

「ぼくの部屋です。ここ長野県阿智村(あちむら)の……信州天文大学の近くにある……」

「あなたは誰?」

 口ごもって答えると、彼女はさらに警戒した様子で眉をひそめて捲し立てた。

 部屋の隅には、本来ゴミ箱に詰めるべきレポート用紙が散乱している。 机の上にはコーヒーの空き缶や、カップラーメンの残骸が放置されている。

 異性に見られたという意識がそこに向いた瞬間、焦って拾い上げて机の裏に隠した。

「えっと、ぼくは望月 葵(もちづき あおい)。天文学部の大学生で……」

「それで、どうやってここに?」

 立て続けに質問され、背中にじっと汗が滲む。なんだか慌てた気持ちが隠せない。

「ちょ、ちょっと待ってください。言っておきますけど、無理やり連れ込んだわけじゃないですからね!」

 少女はベッドの縁に身を乗り出してきた。満面の笑みを浮かべ、その大きな碧眼をキラキラと輝かせている。

「大学のレポートを書くのに飽きて散歩している途中に、あなたがアパートの前で倒れているのを見つけて……」

「わたしが!?」

 ぼくの話を遮り、少女は嬉しそうに大声を上げて、目を丸くする。ぼくのベッドの上で飛び跳ねる。

 少女は儚くて消えそうな見た目に反して、内面は元気そうだ。

「は、はい。信じられませんが、本当にそうだったんですって」

 精一杯の弁明をした。ぼくはどうしてこんな状況になったのかを考える。自分の家なのに、なぜか他人行儀に振る舞ってしまう。まるで、この空間が自分のものではなく、彼女の存在が支配しているかのような不思議な感覚。

 そんな気持ちを抱えたまま、ぼくは部屋の隅で縮こまっていた。

「たしかに、お気に入りのワンピースに傷がついてる」

 少女は服の裾に付いた小さな土汚れを指さして、白く透けた頬を膨らませた。

「なんか、すみません」

 肩をすぼめて俯いた。自分の家なのに、まるで違う星の侵略者になった気分だ。

「そんな、葵くんが謝ることじゃないよ」

 あっけらかんと大口を開けている。

「ところで、あなたのお名前は?」

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