3 入出力補完装置の諸問題

 3-1


 ――人は変わるものだと、先生はおっしゃいました。良くも、悪くも、経験が人を変えるのです。人が経験を選択することができるのなら、自らを思い通りにデザインすることは可能でしょう。もちろん、全ての経験を完璧にコントロールできたとして、という条件のもとに、なのですが。従って、人は思い通りに変化することはできない。それでも、人はよい方向に変われると? 自らが望まない経験に、抉られ、叩きのめされ、腫瘍や潰瘍で侵される。簡単に言えば、それは癌化なのではないですか? 抗がん剤が病巣と共に生命そのものを蝕むのは、癌が自己に他ならないからではないですか。望んでいない経験もまた、自らが引き寄せたものなのではなかったでしょうか。いや、むしろ、選択不能な経験の積み重ねこそが、自己だったのではないでしょうか。つまり、自己そのものが自らの支配下には無かった、ということだったのです。経験は蓄積されていきます。それは記憶として。記憶とは脳を作り変えるものですからね。もっと物質的に、肉体形成そのものに影響を与えていくのではなかったでしょうか。自己は不確定な経験の集積で肉体はその痕跡です。川の中ほどにひっかかった枝が、さまざまなゴミをせき止めて、巨大な塊を形作っていくと、水流は影響を受けて流れを変える。流れが変わると流れてくるゴミも変化するではありませんか。それが自己と経験の同一性の分かりやすい説明だということにしませんか? では、私とは、最初にひっかかった枝でしょうか。それとも、枝がひっかかることとなった川底の構造物でしょうか? 精子と卵子か、アーラヤ識とマナ識か。ね。いま、僕は、音と匂いの奔流の中で、そんなことを考えていますよ。



 3-2


『……身体のこと、豊島先生から聞きました。手紙をありがとう。貴方からの手紙を読んで、そして、現在のあなたにとって、手紙を書く、ということが、どういうことなのかを考えたとき、私は少しこわくなりました。こわい、というのは、恐怖ではないの。畏怖、というのに近いと思う。私はあの三階の一室で、貴方を理解しようと必死だった。だけど、結局、貴方の上澄みを遠くからすこし透かして見ていただけだったんだなって、思ったの。鈴木さんのことはね。あのことは、私の弱さが、貴方に集中してしまったのだと思う。私の弱さ、なんていう風にまとめてしまうことが、赦されるはずはないのだけれど。

 ふう。いちおう、返事を書いて、それを読もうと思っていたのね。原稿はできてるの。テキストデータで送れば、読み上げてくれるソフトはあるんだろうなって思ったんだけど、3年前、私達はずっと会話をしてきたでしょ。だから、私は貴方に向かって話すことに慣れているから、録音することにしたんだけど、話し始めると、脱線しちゃうわね。ちょっと整理させてね。(ポーズ)』


 それは定形外の封書で届いた。封を切ると大きくて厚い紙が指に触れた。引き抜くと点字化された内容物のリストだった。

 CDケースに入ったCD-ROMが一枚。ダンボールを刳り貫いた台紙に収まったUSBメモリが一本。そして、点字化された便箋。CDには音声データが、USBメモリーには「txt」と「pdf」の二種類の文書データが収まっている。文書データと便箋とは同じ内容で、音声データは、その文書データを読み上げながら、ところどころで脱線したり、息遣いが混じったりしていて、なかなか興味深い。

 先生はいつも呼吸するのと同じような感覚で、こうした配慮を怠らなかった。僕は「かなわないな」と思う。

 ヘッドホンで先生の声を繰り返し聞いて、その表情、視線、息遣い、唇の動きと、そこから覗く歯や舌の艶かしさを再構築し続ける。音声データの優れた点は、好きなところを好きなだけ繰り返したり、言ってもらいたい言葉を、思う存分に言わせることができたりするところにある。

 先生の言うとおり、テキスト読み上げソフトが読み上げるテキストに、僕は官能を感じない。そこには息遣いが無い。つまり生命という余剰が無いからだ。



  3-3


『あなたはいつだって、生きることの意味を考えていたような気がする。それはいまも変わっていないのかな。あなたは生きているということがあまりうれしそうじゃなかったしね。どうして生まれてしまったんだろうっていう疑問を、自分に突きつけていたのかなって、思うのね。私は生きていることの幸せを伝えたかった。悩むってことは、生まれてしまったことに意義を見出したい存在の意思なんだと思う。あなたが、「見ること」に執着していたのは、そうね。生まれてくる前の赤ちゃんが、おなかの外の世界を覗いている、みたいな感じ? だったのかしら。あなたが自分のことを、とっかかりのない完全な球体に喩えて、申し分のない教育を施された結果、いびつさ、という個性を失った奇形だと言った時、私はとても奇妙だと感じた。だって、あなたは、とても個性的だと、私は感じていたから。あなたは他人の中の自分と自分との差異のことを語った。私は、あなたがもっと外へ自分をさらけ出すほうがいいんだと思った。あなたは、いつも、完全な球体の中から、眼だけをぎょぎょろさせていたのね、結局。この世界って、生きていることって、いろいろな音や、匂いや、感情が、溢れているわ。眼が不自由になったあなたに、こんなこと話すなんて、デリカシーが無いかしら? でも、眼だけだったあなたより、今のあなたのほうが、世界に広く関われているような気がするの』


 先生が僕のことについて語るのを聞くことは、なんと官能的な体験だろう。その声は僕の脳襞を震わせ、言葉は新たな亀裂と接続とを生み出してくれる。

 先生の率直さが、僕は好きだった。一人の、担任ではなかった生徒を救えなかった責任を感じて学校を辞める潔さも好きだった。先生は立派だ。立派な人を目の前にすると、僕は手もなく崇めてしまうので、声だけを聞くくらいがちょうどいい。先生は僕を罵倒するに値するが、そうすべきときにその権利を行使しなかった。僕の裏切りに対する不審を火元とした怒りの炎は、埋め火となってもなお燻り続けているはずで、そのきな臭さを嗅ぎ取る嗅覚は、僕にはまだ健在だった。



  3-4


 そうこうしている内に、大学から装具一式が届いた。これに習熟し、モニターレポートを作成しなければならない。

 メガネ型のヘッドマウントにはCCDカメラが内臓されており、そのデータは画像認識ソフトに送られる。カメラの解像度は高く、画像認識ソフト処理は超高速だ。カメラが捉えた景色は画像認識ソフトによって「名前」「分布」「速度」等のパラメーターへ分解され、それを主に音声によって伝達してくれるのである。視力検査を受けたら、7.0以上の認識が可能だった。

 カメラの焦点操作と、音の位相把握方法は、自分が知りたい方向へ眼球を向け、遠方の情報が欲しいのか、近距離なのかに応じて、かつては双方向的無意識によって行っていた焦点調節を、耳からの空間認知情報に応じて意識的に行えばよい。さらに技術が進めば、脳波と意識とを直にリンクさせられるようになるだろう。

 突発的な移動事象にたいする警戒は、エコー機能と、広角レンズの画像走査が常時働いている。それは、身体を中心とした半径50メートルのドーム型にカバーし、近づいてくる物体の速度、加速度、方向に応じてアラートを発令する。つまり、レーダーだ。アメリカの全盲少年のように、常時舌打ちをし続ける必要も、そのエコーを瞬時に解析できる耳を持つ必用もなかった。アラートを聞き分け、アラート音がもっとも小さくなる方向に身体を動かせば、障害物は回避できる。もちろん逆の場合にも有効だから、身体能力さえ十分ならば、野球でも、サッカーでも、健常者と同等以上にこなせるだろう。もちろん、必要な運動技能が身についていればだが。

 本を読むときには文字認識読み上げ機能が働く。自動翻訳もできる。耳を邪魔されたくなければ、点字モードにも切り替わる。点字をうちだす仕組みはスマートホン程度の大きさの本体裏面に装備されている。

 具体的には、カメラが捕らえた「風景の構成要素」を、『タチアオイ背ブナ林内カエデ間墓地』とだとか『○○の××車接近時速何キロ通過』などと教えてくれる。顔を登録しておけば、手を上げて駆け寄ってくる人がどこの誰であるのかも知らせてもらえる。ナビ機能もついているから、道に迷うことも無い。

 僕は僕自身の視覚を一切つかわず、肉眼よりも高い精度で、しかも有用な情報を付加した形で、この世界の視覚情報を活用することができる。



  3-5


『九月になって、あなたがこちらへ引っ越してきたら、また話す機会があるわね。あの三階の部屋以外で、ただ一度だけ、夏の滝の下で話をしたことは、私の記憶の中に、ちぎり絵みたいに浮かんでいます。緑と水色とが滲んだ和紙をちぎって、まわりがけばけばしているみたいな上に、木々のドームから降り注ぐ木漏れ日と、澄み切った川の中で金砂銀砂が舞い上がる滝つぼの様子がシルクスクリーンみたいに転写されていて。あなたは川面にあおむけにただよって、私はくるぶしをつめたい流れに浸して、飽和したせみの声が他の一切を遮断して静かだわ。あなたは一生懸命に自分のことを話そうとしてくれた。あなたはそうやって、存在理由を捜し求めていた。あれは夏だったな。

 その後あなたと向き合う機会が減ってしまって、鈴木さんのこともあって。

 それからのことを、いろいろ話したいと思います。新しい世界の錐島郁夫君は、どんな風かしら。いまからとても楽しみです。連絡を待ってます。それではお元気で』


 巡る季節のつれづれに、視覚記憶が想われる。僕はもう先生の顔も身体も、見ることはできない。だがもともと、顔や身体を必用としていた部位と、先生の声を求めていた部位とは区別されていたし、先生と生徒という互いの立場が、性的興味を粉飾していたのに過ぎなかった。僕は声のみを求めていた…… いや、あの微笑だけは、やはり何にも替えがたい。それだけは残念だ。

 微笑みを、視覚以外の何かで置き換えることはできないだろうか。音楽? 香り? やさしく抱きしめられる感触? いや、代替不可能だ。

 僕は先生からの手紙を指でなぞっていて、この喪失に気づいた。と同時に、視覚情報を、別の感覚、主に聴覚へと割り振る視覚補助装置が馬鹿馬鹿しく感じられた。僕は汗でぬるぬるするヘッドマウントを外した。すると、「装着不備」を示すアラートが鳴り響いた。

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