第2話 幸運のサイン

 画廊の静かな空気の中、麻衣の笑顔がキャンバスに描かれた光のようだった。僕、弘大は、初めて彼女を見た瞬間、胸の奥で何かが動いた気がした。そこは小さな画廊で、壁には色彩豊かな抽象画が並び、麻衣は受付のカウンターに立っていた。彼女の黒い髪が、柔らかな照明に照らされて、まるで夜の湖面のように揺れていた。

「この絵、好き?」

 麻衣が僕に話しかけてきたのは、僕が一枚の絵の前に立ち尽くしていたときだった。青と緑が混ざり合うその作品は、山岳の稜線を思わせる力強い線で描かれていた。

「うん、なんか……、山に登ったときの気持ちを思い出すよ」と、僕は少し照れながら答えた。

 彼女の目がキラリと光った。「山、登るんだ? 私も山が大好き! 特に早朝の空気がね、胸にスッと入ってくる感じが最高なの」

 それが僕たちの始まりだった。麻衣は画廊のスタッフで、週末には山に登るのが趣味だと言った。僕も山が好きだったから、話はすぐに弾んだ。次の週末、彼女に誘われて、二人で近くの山に登ることにした。

 山道を歩きながら、麻衣はクローバーを手に持って笑った。「ほら、四つ葉!」彼女が差し出した小さな緑の葉は、朝露に濡れて輝いていた。「幸運のサインだよ、弘大。これ、持ってて」

 その瞬間、彼女の指が僕の手をかすめた。冷たいのに、どこか温かい感触だった。山の風が頬を撫で、麻衣の笑顔が目の前にあった。心臓が少し速く打った。

頂上に着いたとき、麻衣はリュックから小さなスケッチブックを取り出した。「山の空気を絵に閉じ込めたいの」彼女の鉛筆が紙の上を滑る音が、風の音と混ざり合った。僕はただ、彼女の横顔を見つめていた。麻衣の目は、山の稜線をなぞるように真剣で、でもどこか柔らかかった。

「弘大、なに見てるの?」彼女が笑いながら顔を上げた。

「いや……その、麻衣の絵、いいなって」言葉を濁したが、彼女にはバレていたかもしれない。

 その日以来、僕たちはよく一緒に山に登った。画廊で会うたび、彼女は新しい絵を見せてくれた。どの絵も、山の息吹やクローバーのような小さな命を感じさせるものだった。ある日、麻衣が言った。「弘大と山に登ると、なんだか絵がもっと生き生きするの。不思議だね」

 僕は、彼女の言葉に胸が熱くなった。麻衣と過ごす時間は、まるで四つ葉のクローバーを見つけたときのような、特別な幸運だった。

 ある夕暮れ、画廊の閉館後に、麻衣が一枚の絵を僕に見せてくれた。そこには、僕たちが登った山の頂上、クローバーが風に揺れる風景が描かれていた。そして、絵の隅に小さな二人の影。

「これ、僕たち?」と聞くと、麻衣は少し頬を赤らめて頷いた。

「うん。弘大と一緒だと、山も、絵も、もっと好きになるよ」

 その瞬間、僕は思った。麻衣と見る山の景色、彼女が描く絵、クローバーの小さな幸運――これからも、ずっと一緒にいたいと。

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