契約結婚の条件

 ――数時間後。

 馬は深い森を抜け、霧がかった山のふもとにある、小さな村へと辿り着いた。


 その場所は、地図にも記されていない辺境の隠れ里だった。

 仮面の騎士は、村人たちから「ヴァルト様」と呼ばれていた。


 リリスは騎士の屋敷に招かれ、暖炉の火で体を温めていた。

 湿った髪を乾かしながら、彼女はようやく正体を尋ねた。


「あなたは……いったい、何者なの?」


 騎士――ヴァルトは仮面のまま椅子に腰かけ、答えた。


「名乗るほどの者ではない。俺はただの、追放された者を拾うのが趣味な男だ」


「……皮肉?」

「少しだけな。だが実際、お前は“王に追放された姫”なんだろう?」


 リリスの心臓が跳ねた。


「……どうして、それを」

「仮面の奥では目がよく見える。それに、王女の教育を受けた人間の仕草は、すぐにわかる」


 彼は冷静な口調で言ったあと、しばし沈黙し、リリスを真っすぐに見た。


「俺と“契約結婚”をしないか?」


「――え?」


「ここは法も王権も届かぬ辺境だ。だが、女一人では生きていけない。

 俺は旅に出ることが多い。村人たちに怪しまれないためにも、妻が必要だ」


「……偽装結婚、ということ?」


「ああ。契約だ。俺もお前も、余計な詮索をされたくはないだろう?」


 合理的で、理屈の通った提案だった。

 だが、それでもリリスの胸には、言い知れぬ不安が募った。


(……私は、また誰かに利用されるのかもしれない)


 そう思った瞬間、ヴァルトは静かに言った。


「条件は一つ。俺に恋をしないこと――それだけ守れ」


「……!」


 その一言が、リリスの心に深く突き刺さる。

 なぜ、そんな条件を? なぜ、そんな目をして言うの?


「……わかった。契約、成立よ」


 震える声でそう答えたとき、リリスは知らなかった。

 その“恋をしてはいけない契約”こそが、すれ違いと胸の高鳴りの始まりになることを。

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