透けた未来に手を伸ばす
月詠 澪
第1話 流される日々に後悔
葉山が亡くなった。
そう聞いた瞬間、私、宮坂灯は涙も流さず、ただその場に立ち尽くしていた。
冬の寒さなんか忘れていた。
きっと冷たい人間だと思われたかもしれない。
でも、実感なんて湧かなかった。
あんなに元気だった人が、いなくなるなんて。
またいつものように、「よっ」とか言って、ひょっこり現れる気がして仕方なかった。
葬儀の日、葉山蓮の家族から、小さめのノートを渡された。
「これ、蓮が最後まで持ってたものだから」
そう言って、奥さんのように優しい笑みを浮かべるお母さんの手から受け取ったそのノートは、蓮の日記だった。
中はびっしりと文字で埋まっていた。
几帳面な彼らしい整った字で、日々の出来事やちょっとした思いが綴られていた。
でも、読み進めるうちに、気づく。
文字が、徐々に減っていく。
空白が目立つようになり、言葉もどこか暗く、閉じた色になっていった。
そして、最後のページ。
そこには、たったひとことだけ。
「灯」
その文字を見た瞬間、胸の奥が、ぎゅっと締めつけられた。
私は、あの頃のことを思い出していた。
春も終わりを告げるころの午後、教室のざわめきが窓の外まで漏れていた。
私はその音を背にして、昇降口へと歩いていた。誰かに呼ばれることもなく、呼び止めることもなく、ただその時間をやりすごす。
いつものことだった。
靴を履き替えると、ちょうどそこにいたのが、蓮だった。
壁にもたれかかって、スマホをいじっているふりをして、どこかぼんやりとしている。
「……遅かったな」
私に気づくと、彼は顔も見ずにそう言った。
「寄り道してた」
本当は、ただトイレにこもって時間を潰していただけだ。
放課後の人混みが苦手なだけ。それを知ってるから、蓮は何も聞かない。
二人並んで歩く帰り道。
特に会話があるわけでもないけど、それが嫌じゃなかった。
ふと、蓮が私の顔を見た。
「最近、ちょっと疲れてない?」
唐突な問いに戸惑って、私は少しだけ目をそらした。
「……そう見える?」
「見えるっていうか、なんとなく」
彼はそう言って、前を向いたまま歩き出した。
蓮はいつも、言葉にしない私の気持ちをなぜか察していた。
話さなくてもわかってくれる。
そう思っていた。
それが心地よくて、私は彼といる時間が好きだった。
けれど、そのときの私はまだ知らなかった。
この何でもない日々が、二度と戻らないものだということを。
「付き合ってほしい」
そう言われたのは、放課後の教室だった。
クラスメイトの男の子。
名前も顔も知ってるけど、特別仲が良かったわけじゃない。
突然すぎて、返事に困って、少し笑ってしまった。
「……どうして私なの?」と訊くと、
「なんとなく、気になってた」と言われた。
なんとなく。
その言葉に、引っかかりはした。
でも、断る理由も、特にない。
誰かを好きだと思ったことも、自分から求めたこともなかった。
だから私は、うなずいた。
「……うん、わかった」
そのとき、自分が何を望んでいたのかなんて、正直わからなかった。
ただ、流れるように答えただけだった。
──それから数日後。
昇降口で蓮と顔を合わせたとき、彼はいつものように笑って言った。
「付き合ったんだって? おめでとう」
誰かから聞いたんだろう。
その笑顔は、いつもと変わらないはずなのに、
ほんの一瞬だけ、目の奥が揺れたような気がした。
私の心の奥が、なぜか小さくざわついた。
けど、私はそれに気づかないふりをした。
「……ありがとう」
それだけ言って、いつものように並んで帰った。
何も変わらないふりをして。
すれ違っていく日々
付き合い始めてしばらく。
私と彼は、特に大きな問題もなく過ごしていた。
休日に出かけて、写真を撮ったり、ゲームの話で笑い合ったり。
人から見れば「普通にうまくいってる」カップルだったと思う。
だけど。
なぜか心のどこかが、空っぽだった。
笑っている自分に、少しだけ嘘をついているような気がして。
そんな自分が嫌で、時々、蓮のことを思い出した。
──ある夏の日の放課後。
なんでもない理由をつけて、私は蓮に連絡した。
「ちょっとだけ話したい」
そう送ると、すぐに「いいよ」と返ってきた。
人気のない公園のベンチに、ふたり並んで座った。
夕方になっても空は少し明るく、ジメジメした空気が漂った。
「最近、あんまり会ってなかったね」
蓮がそう言った。
「……うん、なんか、いろいろあって」
恋人といても、どこか気が抜けなかったこと。
一緒にいても、疲れてしまうこと。
本当は蓮に話したかったけど、言葉にはできなかった。
沈黙の中、私が何かを言おうとしたそのとき。
蓮の方から、ぽつりと呟かれた。
「……ちゃんと、大事にしてあげなよ」
驚いて顔を上げたけど、彼は私を見なかった。
夕陽の方だけを、じっと見ていた。
「せっかく選んだ人なんでしょ?」
その言葉に、胸が詰まった。
何も言い返せなかった。
──しばらく経ったある日の夕方。
街中のカフェの前で、偶然、蓮に出会った。
隣には女の子がいた。
笑顔が似合う、柔らかい雰囲気の子だった。
私の隣にも、彼がいた。
その時の私は、もう彼の手を自然に握れるようになっていた。
「あ、宮坂……」
蓮が気まずそうに笑った。
「こんにちは。葉山くんの彼女ですか?」
私の恋人が、隣の彼女に声をかけた。
「えっ……」と彼女が戸惑いながらも、「はい、初めまして」と返す。
蓮は何も言わなかった。
私は、笑うしかなかった。
あたかも“今”をちゃんと生きてる人間のふりをして。
互いの“彼女”と“彼氏”が、ぎこちなく挨拶を交わす。
その間ずっと、胸の奥で何かが崩れていく音がしていた。
気づけば、蓮と話すことはほとんどなくなっていた。
季節もめぐり夏から秋へ、そして冬へと近づいていた。
目が合っても、どちらからも視線を外すようになって。
「恋人がいるから」
そういう理由が、お互いを遠ざける言い訳になっていた。
きっと、私も蓮も──
あの頃、自分が何を大事にすべきか、わからなくなっていたんだと思う。
一緒に笑い合っていた時間は、だんだん遠くなって、
今はもう、蓮が誰と話しているのかも知らない。
──そんなある日。
放課後、下駄箱の前で帰ろうとしていた私の前に、蓮が立っていた。
「……宮坂」
その声に、胸がきゅっと縮んだ。
久しぶりに聞いた名前の呼び方だった。
「……どうしたの?」
「……ちょっとだけ、話したい。今日、少しだけ時間ある?」
蓮の顔を見て、私は一瞬ためらった。
その表情が、あまりにも真剣で、少しだけ苦しそうで──
「何かあった?」って聞きたくなるくらいだった。
けれどその日は、恋人と映画に行く約束をしていた。
前から楽しみにしていた予定だった。
「ごめん、今日ちょっと……明日なら、大丈夫」
蓮は少しだけ間をおいて、ふっと笑った。
その笑顔は、どこかいつもより大人びて見えた。
「……そっか。じゃあ、また」
それが、蓮と交わした最後の言葉になった。
次の日。
蓮は、学校に来なかった。
そしてその翌日も。
一週間が過ぎ、気づけば──永遠に、来なくなった。
「……灯」
ノートの最後のページには、その名前だけが、ぽつりと書かれていた。
まるで、何か言いかけて途中で筆を止めたような、そんな終わり方だった。
ページの端をなぞる指先が、ほんの少し震えた。
胸の奥で、言いようのない痛みが静かに広がっていく。
──あの日。
蓮が「話したい」と言ってきたときの、あの表情。
今でもはっきりと思い出せる。
どこか苦しげで、けれどどこか覚悟したような顔。
あのとき、私は何も聞かなかった。
気づいていた。
最近の蓮の表情に、元気がないことくらい。
目の下の隈、ふいに黙り込むこと、笑顔の奥に混ざった影。
──気づいていたのに。
私は、気づかないふりをした。
“恋人がいるから”
“波風を立てたくないから”
“気まずくなるのが嫌だから”
そんな言い訳を、心の中で並べて。
きっと、蓮も同じだったんだと思う。
お互いに遠慮して、言葉を飲み込んで、見て見ぬふりをして、
それでもどこかで、またちゃんと向き合える日が来るって──
根拠もなく信じていた。
けれど、あの日が最後になった。
「また」なんて、二度と来なかった。
蓮は、何を言おうとしていたんだろう。
私に何を伝えたかったんだろう。
謝りたかったのか、助けてほしかったのか、それとも……
──それすら、もうわからない。
けれど、もし。
もし、私があのとき、あの日、
ちゃんと立ち止まって、蓮の声に耳を傾けていれば。
──波風なんて気にせずに。
──誰かにどう思われるかなんて考えずに。
蓮と、ちゃんと向き合っていれば──
こんな結末には、ならなかったんじゃないか。
いくら後悔しても、時間は止まってはくれない。
どんなに願っても、戻ることはできない。
私は、震える手であの日のノートを握りしめた。
ページの感触が、切なさと決意を胸に伝わってくる。
もしも、もしも戻れるのなら──
今度こそ、流されずに。
ちゃんと向き合って。
自分の気持ちに嘘をつかずに。
納得いく選択をしたい。
そんな思いを胸に、目を閉じる。
すると、やわらかな光が私を包み込んだ。
温かくて、怖くなくて、すべてを包み隠すような光に。
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