第7話:癒しと記憶と、粥の本当の名前
朝の光が、ゆっくりと窓辺を照らしていた。
霧は晴れ、空は澄み、王都アルセインは静かな息を取り戻していた。
王女リシェリアは、ベッドの上でゆっくりと身体を起こした。
その表情には、これまでの疲労の色はなかった。
むしろ、何年も張り詰めていた糸が、やっと解けたような安堵が浮かんでいた。
「……夢を、見たの」
誰に語るでもなく、リシェリアはそう呟いた。
「暖かい部屋。誰かが、小さな鍋で、お粥を作ってた。……私は泣いてて、その人が、何も言わずに、そのお粥を差し出してくれた」
指先が、無意識に銀のスプーンに触れた。
そこにはもう、粥はない。ただ、ほんのりとした温もりだけが残っていた。
「その人の名前は……拓海。あなただった。私、思い出したの」
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それは、リシェリアがまだ“王女”ではなかった頃の、前世の記憶。
日本という世界の、ある病院の病室。
父母を亡くし、心を閉ざしていた少女・リシェリア(そのときは別の名前だった)に寄り添ってくれたのは、看護学生の青年だった。
口数は少なかったが、いつも静かに彼女のそばにいてくれた。
ある冬の日。
彼女が熱を出して泣いていたとき、彼は病室の簡易キッチンで、白米と塩だけのお粥を作ってくれた。
「ごはんって……優しいね」
「うん。言葉なくても、伝わるから」
それが、ふたりの最後の会話だった。
数日後、彼は研修を終え、そのままどこかへ行ってしまった。
彼女はその後、日本での記憶をすべて閉じて生き、異世界に転生した――王女として。
だが、癒されなかった心は魂に深く残り、“魂の霧病”として現れた。
そして、同じように“誰かを癒すこと”を望んだ拓海の魂もまた、彼女の傍らに――お粥という形で転生したのだ。
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「拓海さん……」
リシェリアの声に応じるように、窓辺に小さく白い湯気が立った。
――声はなかった。
けれど、彼女にはわかった。そこに、彼がいることが。
「あなたは、私の心を救ってくれた人。前の世界でも、今の世界でも。
そしてきっと、これからも――私の“癒し”の人なのね」
その言葉に、空気がふわりと震えた。
音ではない。けれど確かに、優しさがそこにあった。
そして、彼女は小さく笑うと、器をそっと抱きしめた。
「拓海さん。あなたの名前は、粥でも、人でも、変わらない。
あなたがあなたである限り、私は絶対に忘れないから」
その瞬間、部屋の空間がほんのりと輝いた。
器の底に、金の文字が浮かび上がっていた。
――望月 拓海
彼の名前だった。
それは、ただの粥ではない。
誰かを救いたいと願い続けた青年の魂が、ようやくこの世界で認められた証だった。
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その頃。
王都のはずれ、静かな森の中。
料理仙人クルトは、ひとつの鍋をじっと見つめていた。
「……名を持ったか。ならば、次に待つのは――“存在の選択”だ」
鍋の中には、静かに眠る白粥の残り香があった。
世界がまたひとつ、変わろうとしていた。
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