第3話:彼女の病と、お粥の力

「リシェリア様、そろそろお薬の時間でございます」


 静かに扉が開くと、侍女のソフィが一歩控えて立っていた。

 白いカップに入った薬湯は、嫌な香りが部屋中に立ち込める。


「……ありがとう、ソフィ。でも……今日のお粥をいただいた後なら、きっとこの薬も楽に飲めると思うわ」


「……? それはまた、随分と……」


「お粥に、何かがあるのよ。不思議とね、心が落ち着いて、呼吸が楽になるの」


 ソフィは不審そうに眉をひそめたが、王女の言葉に逆らうことはなかった。

 扉が再び閉じると、リシェリアはそっと、器の中へ視線を落とした。


「聞こえていたわね、拓海さん」


「まぁな。あの侍女さん、俺のこと完全に“名医お粥”だと思ってるな」


「違うの? わたし、もう何年も“霧病”の苦しさに悩んできたの。でも……ここ数日、ずっと眠れてる。朝、起きるのが辛くないの。こんなこと、初めてよ」


 リシェリアの瞳はまっすぐだった。

 飾らない言葉に、嘘はなかった。


「俺が……癒してるってことか?」


「そうとしか思えないの。……けれど、それだけじゃない気もするの」


「……どういう意味?」


 リシェリアは少しだけ言葉を止め、それから窓の外に目を向けた。


「たとえば……夜。夢を見るの。知らない世界。高い建物が立ち並ぶ街、鉄の箱みたいなもので人が移動していて……」


「……それ、日本じゃねぇか?」


「え?」


「あ、ごめん。なんでもない」


 しまった。つい素でツッコんでしまった。

 だが彼女は驚きの表情のまま、こちらをじっと見てきた。


「……やっぱり、あなたは普通の存在じゃないのね」


「うーん……お粥として普通かと言われたら、全然普通じゃないけど」


「ふふっ」


 くすりと笑うその顔に、ほんの少し、少女らしさがにじんでいた。


「拓海さん。わたしね、昔から病気が治らなかったから、誰にも必要とされないと思っていたの。……王族なのに、役立たずだって」


「……」


「でも、あなたに出会ってから、少しだけ自分でもいいのかもって思えてる」


 その言葉に、心が少しだけざわついた。

 俺は、お粥だ。人間ですらない。

 でも、この器の中で、誰かの力になれている。


 それは、生きていた頃に得られなかった――本物の実感だった。


「……俺さ、死ぬ数日前、なんでかわかんないけど、お粥作ってたんだ」


「え?」


「たぶん、誰かを癒したかったんだと思う。自分が壊れる寸前で……それでも、誰かにあったかいもん食わせたくて」


 自分でも、何を言ってるのかわからなかった。

 でも、どこかで確信があった。

 この粥としての存在には、意味があるんだと。


「拓海さん……」


 彼女はそっと器に指を添え、優しく撫でた。

 その手のひらは、温かかった。

 お粥である俺の“身体”を通して、それがはっきりわかるくらいに。


「ありがとう。あなたがここにいてくれて、本当によかった」


 その言葉に、心がじんわりと満たされていく。

 俺はもう、普通の人間じゃない。

 でも今、この瞬間だけは――俺は、誰かの希望になれているのかもしれない。


________________________________________


 その夜。

 リシェリアが眠る静かな寝室。

 窓の外には、不穏な影が差していた。


 黒い霧のようなものが、城の外れからじわじわとにじんでくる。

 それは、王女を蝕んできた“魂の霧病”の、本当の姿だった。


 まだ誰も知らない。

 この世界で今、ひそかに進行している異変を。


 そしてそれが、喋るお粥の誕生と深く関わっていることも――。

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