第5話──「もう一度、あの香水を」
春の終わりのある日、
いつものように病院の中庭に出ると、風がやさしく吹いていた。
点字ブロックの先、ベンチの方に足を向けると──
そこに、誰かが座っていた。
風がふわりと香りを運ぶ。
アメジスト・グレース──そして、微かに混じるバニラ。
香った瞬間、心が跳ねた。
間違いない。
……いや、
近い。けれど、本当に“彼女”なのか?
僕は声をかけることもできず、ただ立ち尽くしていた。
すると、彼女の方から静かに言った。
「……久しぶり。気づいてくれたかな」
声のトーンは、あの頃と同じ。
でも、どこか穏やかすぎる気もした。
「その香水……君なの?」
問いかけに、彼女は少しだけ笑った。
「香りで、私を探してくれたの?」
「……唯一、覚えていたから」
間があった。
その沈黙に、たまらず問いを重ねた。
「君は……本当に“あの時の美雨”なの?」
「……それは、あなたが確かめて」
「どうやって?」
「香りで、心で──きっと、わかるでしょう?」
彼女は静かにベンチを立ち、近づいてきた。
そして、僕の手をそっと取った。
その温度に、胸が詰まった。
──でも、
どこか違和感があった。
香りは同じ。手のぬくもりも、声も近い。
なのに……何かが“少しずつ違う”。
まるで、
完璧に再現された記憶の中に、
“ひとつだけ違う色の糸”が混じっているような感覚。
「どうして、戻ってきたの?」
「あなたが、忘れなかったから。香りを」
「それだけで……戻れるの?」
「……いいえ。
でも、信じてみたかった。
あなたが記憶をなくしても、
“心”で私を見つけようとしてくれたことを」
その時、僕はふと気づいた。
彼女は一度も自分の名前を口にしていない。
彼女が本当に「美雨」なのか、誰も証明していない。
ただ、香りと声と仕草が「似ている」だけ。
──では、この人は誰だ?
「……もし、君が“彼女じゃなかった”としても」
「……うん」
「この10年間、僕が探してたのは、心だったんだと思う。
香りの奥にある、君の想いを──ずっと」
彼女は、少し泣きそうな笑顔でこう言った。
「その言葉、ちゃんと“彼女”に届けておくね」
その瞬間、心の奥がざわめいた。
──やはり、彼女は本物ではなかった。
けれど、
本物を探す旅の“橋渡し”をしに来た人だった。
その背後には、まだ姿を見せない“本当の彼女”が
どこかで香水を纏い、静かに様子を見ている気がした。
そしてその日、
病室の机に、ひとつの小瓶が置かれていた。
──アメジスト・グレース。
蓋には、小さな紙が添えられていた。
《明日、午後二時。あのベンチで。
香りをつけて、向かいます。
心の記憶が、まだ生きているなら──私を見つけて。》
僕はその小瓶を手に取り、蓋を開けた。
記憶の奥に、微かに揺れる春風と涙の香りが広がった。
本物の再会は、明日だった。
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