第19話 言葉にならない和音

夕方の音楽室は、放課後の喧騒が嘘のように静かだった。

 淡い西陽がステンドグラスのように床に模様をつくっている。


 心音は、深呼吸をしてから、そっと扉を開いた。


 「……神谷くん」


 グランドピアノの前に座っていた奏多が、振り返る。

 その表情には、どこか驚きと、少しの迷いがあった。


 「話せるかな、少しだけ」


 心音の声は、思ったよりも震えていなかった。


 奏多はゆっくりと立ち上がり、頷いた。

 ふたりの距離は、まだ少し離れている。それでも、前よりは近い気がした。


 「昨日……澄香に会ったの。あなたのこと、少しだけ聞いた」


 奏多の目が、かすかに揺れる。


 「……そっか。澄香は、全部話したんだね」


 「ううん、“全部”じゃなかったよ。

 あなたの口から、聞きたいと思ってたから」


 奏多はしばらく黙っていた。

 やがて、ポケットから小さな鍵を取り出すと、楽譜棚の一角を開け、中から一冊のノートを差し出した。


 「これ、見てもいい?」


 心音は頷く。中には、びっしりと書き込まれた手書きの楽譜。

 どのページも、たくさんの書き直しと、消しゴムの跡。

 ――そして最後のページにだけ、こう書かれていた。


 >《タイトル:Unspoken Harmony(言葉にならない和音)》

 >for Vn. & Pf.(ヴァイオリンとピアノのための二重奏)


 心音は息をのんだ。


 「これ……わたしたちの、曲?」


 「そう。……あの日、初めて君のヴァイオリンを聴いたあと、ずっと頭の中に響いてた。

 言葉じゃなくて、旋律でしか伝えられないと思ったから、書いたんだ」


 静かな沈黙が落ちた。けれど、その沈黙にはもう、不安はなかった。


 「なんで言ってくれなかったの?」


 心音の声は、まるで問いかけというより、そっと差し出すような柔らかさだった。


 奏多は、ピアノの前に戻りながらつぶやいた。


 「怖かったんだ。……また失うのが。

 音楽も、誰かの気持ちも。だから、ずっと“演奏”でごまかしてた」


 その横顔に、心音はそっと近づいて座る。

 気がつけば、ふたりの距離はもう、手を伸ばせば届くほどになっていた。


 「じゃあ……次は、演奏じゃなくて、ことばで伝えてみて。

 わたしは、ちゃんと聴くから」


 奏多は、しばらく心音の瞳を見つめていた。

 そして、かすかに息を吸い、ピアノの鍵盤に指を置く。


 ――けれど、音は鳴らなかった。


 奏多は、言葉で、静かに告げた。


 「ありがとう、心音。……君に、出会えてよかった」


 その一言だけで、心音の胸に、いくつもの旋律が流れ出した気がした。

 それは、たしかに音ではなく、ふたりの心が重なった瞬間だった。

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