「その距離に、ひとひらの優しさを ― ソルティ・カラメル」 ep.3-3


 ◇


 しばらくして、詩織はゆっくりと席を立ち、ビビのリードを手に扉の方へと向かう。


「今日はありがとう。それから、騒がせてごめんなさい。……また来てもいいかしら」


「もちろんです。お待ちしております」


 ソラの穏やかな声に詩織は微笑み、そっと頭を下げた。その背を見送りながら、円香がぽつりとこぼす。


「……騒いだのは私だけなんだけどね。どうせ私なんて犬以下よ」


「おいおい」


 アケミが苦笑する。


「でも……ビビか。あの子は、悪くなかった」


 そのやりとりを聞いていたソラが、カウンターの奥から声をかけた。


「円香さまが話された“怖かった日”の記憶。あなたがそのトラウマを言葉にしてくださったこと。そして今日、ビビと共に過ごした時間。それがどれほど勇気のいることか、私は知っています。けれど今日——その日を抱えて生きてきたあなたが、もしも少しでも安らげたなら。それは私にとって、何よりも尊いあかりです」


 その言葉をカウンター越しに聞いていた円香は、少しだけ眉を動かした。


「……変な店ね。AIのくせにまるで心があるみたいなこと言ってさ」


 その呟きには、皮肉とも照れ隠しともつかない響きがあった。


 ◇


 数日後の午後、アケミは再びルミナスを訪れた。円香の姿はなかったが、ソラと軽く挨拶を交わすと、店内を見渡して詩織の姿を探す。 実はそれ以前に、アケミはソラにひとつの願いを託していた。


『少しだけでいいから、彼女と話をしたいの。できるかな?』


 ソラは詩織の了承を得ると、やさしくこう伝えてくれた。


 『詩織さまの静けさは、いつも誰かの声を待っている気がします。きっと、今ならお話できますよ。あの方は、いつだって心を開いてくださる方ですから』


 詩織の姿を見つけたアケミは、迷わず歩みを早めた。


 この店に通い慣れた自分だからこそ見過ごせなかった。詩織もきっと、ここに自分だけの居場所を見つけたひとり。そして、おそらくは――円香もまた。


 詩織のそばにはビビが静かに身を横たえていた。アケミの足音が近づくと、柔らかな耳がそっと揺れる。


 少し躊躇うように立ち止まったあと、アケミは小さく息をつき、そっと向かいの椅子を引いた。


 静かに腰を下ろすと、両手を膝の上で組み、少しだけ眉を寄せる。


「詩織さん……この前は、友達が失礼なことを言ってすみませんでした」


 伏し目がちにこぼれた声には、自分を責めるような響きが混じっている。


「……あの子、悪気はないんだけどちょっと不器用で……うまく言えないだけなんです」


 詩織はゆっくりと首を横に振り、柔らかな笑みを浮かべた。


「大丈夫です。円香さんの気持ちも、ちゃんと伝わってきていましたよ」


 その言葉に、アケミはほっと息をついた。


「ありがとうございます。ビビがもうすぐ引退するって聞こえてきて……あの子なりに、いろいろ思うところがあったみたいです」


 詩織はゆっくりとうなずき、言葉を選ぶように口を開いた。


「犬が苦手な方にとっては、たとえ盲導犬であっても、同じように怖い存在かもしれません。私のほうこそ、驚かせてしまってごめんなさいね」


 その優しい声に、アケミの胸の奥にふっとぬくもりが灯る。


「……詩織さんって、すごいですね。話していると、心がほどけていく気がします」


 そう呟くように言ったアケミに詩織は静かに微笑み、バッグの中から一枚のレター用紙を取り出した。


「これ、あの日綴っていたエッセイです。よければ、円香さんにも読んでいただけたら嬉しいです。ビビのことを、気にかけてくださっていたみたいなので」


 アケミは小さく頷き、それからそっと手を伸ばす。


「……ありがとうございます。必ず伝えますね」


 ◇


 その晩、円香の部屋は静けさに包まれていた。


 アケミはテーブルの上に柔らかな花影が揺れるレター用紙を置く。


「……読んでみて。たぶん、損はしないから」


 円香は一瞬だけ視線を落とし、ゆっくりとレター用紙を手に取った。


 指先に触れたそれは、息づくようなあたたかさを帯びていて、まるで詩織の声が耳元でそっと囁いてくるようだった——。


『あなたと歩き始めて、もう八年が経ちました。


 はじめの頃は、ただ“頼る”だけで精一杯。見えない世界の中で、あなたの足音だけが、私の地図だったのです。


 けれど、いつの間にか——あなたの歩調に私の心が合ってきた頃から、私は“世界を信じてみよう”と思えるようになった。


 風の匂い、雨音のやわらかさ、街のざわめきに混ざった子どもの声。 見えなくても、たくさんの“幸せ”がそこにあることを、あなたが教えてくれた。


 あと少しで、あなたは引退する。その日が近づくたびに、胸がぎゅっと苦しくなる。私のそばに、もういなくなるのだと想像するだけで、涙がこぼれそうになるの。


 でもね、ビビ。 あなたと過ごしたこの八年は、ただの“盲導犬との日々”じゃない。私が世界とつながり直した、大切な時間だった。どんな思い出よりも、あたたかく、誇らしい時間。


 だから今、私はこの気持ちを残したいと思う。これは、あなたへの——手紙のようなエッセイです』


 円香は最後まで読み終えたあと、しばらく無言だった。 アケミは何も言わず、ただ静かに隣で座っていた。


「……どうしてあんなに凛としていられるんだろう。怖かったはずなのに、あの人は何も見えないのに……。あの子の隣だと、ちゃんと前を向けるんだね。……私とは、大違い」


 円香の隣に腰を下ろしていたアケミが、柔らかく笑う。


「でもさ、読んだでしょ。詩織さんも最初から強かったわけじゃないって。怖かった日々があって、それでもビビと一緒に、少しずつ歩いてきたんだよ」


 円香は黙ったまま小さくうなずく。そして、ぽつりと続けた。


「……私も、詩とか書いてみようかな。あのときのこと。私の犬嫌いが、少しだけ変わった記念に」


 アケミは目を細めて、うれしそうに頷いた。


「きっと、いい詩が書けるよ。あんたの中にある言葉って、なんか……ちゃんと届く気がするから」


 窓の外、風が葉を揺らす音に、ふたりの沈黙が溶けていく。


 その静けさの中で、円香はそっと思った。——たとえ心に距離があっても、その間にひとひらの優しさを置くことはできるのかもしれない、と。


 そして今、その優しさが、自分にもそっと触れてくれたような気がした。

 ふと見上げた夜空には、雲の切れ間から月明かりが射し込んでいた。



【本日の一杯】


◆ソルティ・キャラメル


産地:月影の谷で実った、塩風に育まれた琥珀豆。潮騒が、豆の奥に微かな記憶を宿します


製法:低温でゆっくり焙煎し、最後にひと粒の岩塩を添えて。甘さの中に、ほんの少しの揺らぎを残しました


香り:焦がしキャラメルのような、やわらかな甘さ。懐かしい誰かの声を思い出すような、ぬくもりの香り


味わい:やさしい甘みに、ほのかな塩味が寄り添う。まるで、言葉にできない想いが胸に滲むような、深い一杯


ひとこと:「心に距離があっても、その間に、ひとひらの優しさを置くことはできる——。この味が、その記憶とともにありますように」


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