第11話:鎮魂歌(レクイエム)が生む、歪んだ花園

 深夜の星蝕亭は、珈琲の残り香と、俺の魂鉄義肢から漏れる微かな銀色の脈動に満ちていた。今日もまた、街の澱んだ記憶を豆へと紡ぎ終えた後の、虚脱感と奇妙な達成感が混ざった静けさだ。作業台の上には、今夜調律した七色に微妙に輝く豆が並んでいる。苦み、甘み、酸味…それぞれが異なる悲しみや後悔を封じ込めた、危険で美しい結晶だ。


「…ふう」


 深いため息が、二階の調律室にこもった空気を震わせた。指が自然と、左腕の義肢の継ぎ目に触れる。金属の冷たさが、疲れた神経をわずかに覚醒させる。今日は特に重い記憶が多かった。工場地帯で起きた集団事故の余波か。亡くなった者たちの無念、生き残った者たちの罪悪感…それらが義肢の神経接続部を鈍く疼かせる。


 ピロリロリーン!


 突然、鋭い電子音が静寂を破った。作業台に置かれた、廻が改良した緊急連絡用の端末だ。表示される名前は「硯川幽子」。心臓が一瞬、不自然に高鳴る。幽子がこんな時間に連絡してくることは、まずない。


 指が震えながら通話ボタンを押す。


「幽子? どうした——」


『譲さん…!』


 声は、いつもの澄んだ静けさを完全に失っていた。かすれ、震え、息遣いが荒い。何よりも、底知れぬ恐怖がにじんでいる。


『庭が…庭がおかしいんです…! 花が…花が…』


「落ち着け、幽子! ゆっくり話してくれ! 花がどうした!?」


『…唄い始めたんです…! 止まらない…! どんどん大きくなって…!』


 唄う? 花が? 理解が追いつかない。幽子の「記憶の庭」には、確かに魂鉄を養分とする奇妙な植物が育っている。だが、それが音を発する?


「今すぐ向かう! そこで待ってろ! 絶対に一人で何かしようとするな!」


『…早く…お願いします…!』


 切れた通話音が、耳の奥で金属的な余韻を残す。不吉な予感が、背筋を凍らせる。祖父の鉱山事故の前夜、あの不自然な静けさを思い出した。あれは破滅の前触れだった。


「廻! 幽子の庭に異変だ! すぐに車を——」


『了解しました、譲さん。ナビゲートと周辺の量子状態監視を開始。車は既に玄関前に待機しています』


 階段を駆け下りる足音が、無人の喫茶スペースに響く。カウンター奥の棚で、螺旋メリーが持ち込んだ「記憶の瓶」の一つが、普段とは違う不気味な青白い光を放っているのに一瞬目が留まるが、今は気にする暇はない。


 外に飛び出し、待ち構えていた小型EVに飛び乗る。エンジン音もなく車は滑り出す。冥界市の夜の街並みが、闇とネオンの濁流となって窓の外を流れていく。助手席のホロディスプレイに、廻の少年のようなシルエットが映る。銀色の左目が、高速でデータを処理しているように明滅している。


『幽子さんの庭から発せられている量子周波数が、通常値の580%を超えています。これは…複数の「感情共振フィールド」が同時に活性化し、大規模な「複合エコー現象」を引き起こす閾値に近い数値です。近隣地域でも、軽度の集団幻覚やパニック症状の報告が散見されます』


「くそっ…! 何が起きてるんだ!?」


『現段階では不明です。しかし、核は間違いなく「記憶の庭」、そして幽子さん本人にあります。ご自身の安全に最大限の注意を払ってください』


 車が旧市街の外れ、幽子の屋敷と庭へ続く細い道に入る。まだ距離があるのに、異様な光が空を染めているのが見える。紫がかった、有機的な妖光だ。


 そして——音が聞こえてきた。


 最初は微かだった。風に乗って流れてくる、どこか懐かしいが、音程が狂った子守唄のようだ。だが、車が近づくにつれ、その音は増幅し、複雑化していく。複数の旋律が絡み合い、時に美しく、時に耳をつんざくような不協和音を生み出す。まるで、狂ったオーケストラが、異世界の楽器で演奏しているようだ。


「っ…!」


 魂鉄の左腕が、突然、激しい痺れと熱を発した。視界が一瞬、歪む。無数の映像——泣き叫ぶ子供の顔、崩れ落ちる建物の瓦礫、血の滴る手、そして…笑っている幽子の幼い姿?——が、洪水のように脳裏を駆け抜ける。街の記憶…否、庭に集められた無数の魂たちの断片的な記憶の奔流だ!


「おいおい…冗談じゃねえぞ…!」


 車を庭の入り口に無造作に停め、ドアを蹴り飛ばして飛び出した。そして、眼前の光景に、息を呑んだ。


 幽子の「記憶の庭」は、地獄絵図と幻想が入り混じった異界と化していた。


 普段は静かに佇む魂鉄を養分とする植物たちが、暴力的な生命力で伸び狂い、妖しく輝く巨大な花々を咲かせている。花弁は半透明の魂鉄で出来ており、内部には無数の微細な光の粒子——量子化された記憶そのもの——が蠢いている。それぞれの花が、異なる音階で、あの歪んだ美しさと不気味さを併せ持つ旋律を奏でている。音の波が空気を震わせ、皮膚にまとわりつく。


 その中心で、一人の少女が立っていた。


 硯川幽子。彼女は愛用のヴァイオリンを抱えたまま、まるで氷づけになったように立ち尽くしている。顔は血の気が失せ、月明かりのように蒼白だ。大きな瞳は、自らが育てた花々が醜く変貌し、周囲の彫像や柵を魂鉄の蔓で侵食し、飲み込んでいく光景を、恐怖と絶望で見つめていた。彼女の足元では、特に巨大な一輪の花が、触手のような蔓を蠢かせ、ゆっくりと彼女自身に迫ろうとしている。


「幽子!!」


 俺の叫び声で、彼女がかすかに震え、こちらの方を見た。瞳に涙が光っている。


「譲…さん…」


 その声は、かすれてほとんど聞こえない。


「…どうして…こんなことに…」


 彼女はヴァイオリンを抱える腕に力を込めた。白い指が弦の上で震えている。


「私の音…私が…みんなを癒やしたくて…必死に願って…奏でた音が…こんな…怪物を…!」


「落ち着け、幽子!」 俺は慎重に、しかし素早く彼女へと距離を詰める。左腕の魂鉄義肢は、暴走する花々の放つ量子波動と記憶の奔流に反応し、熱を持ち、銀色の血管のような光が内部を激しく駆け巡っている。警告のアラートが視界の端にちらつく。『量子記憶過負荷:危険域』。無視だ。「まずは安全な場所に移動だ! 説明は後でいい!」


「でも…でも…!」 幽子の目が、迫りくる巨大な花へと引き戻される。その花の中心部で、光の粒子が渦を巻き、歪んだ顔のようなものを形成しつつあった。「私が…動いたら…もっと暴走する気がする…! この音…私の願いそのものが…形を間違えた音なんだ…!」


「譲さん、注意を!」 廻の声が端末から飛ぶ。『幽子さんの直感は正しい可能性が高い。観測データによれば、花々の活動と彼女の精神状態、特に深い自責と悲嘆の感情が強くリンクしています。無理な移動は逆効果です!』


 くそっ! 俺は咄嗟に止まる。数メートル先にいる幽子と、彼女を狙う巨大な花の蔓。その蔓は、ゆっくりと、しかし確実に彼女の足元へと伸びている。花の奏でる旋律は、ますます不協和音を増し、頭蓋骨を内側から削るような不快感を増幅させる。


「幽子、聞け!」 俺は必死に声を張り上げる。左腕を構え、義肢内部の量子センサーを最大出力に切り替える。視界が歪み、花々から放出される無数の記憶の断片——痛み、悲しみ、絶望、そして…「癒やしてほしい」「消えてしまいたい」という強烈な願い——が洪水のように流れ込んでくる。その中に、幽子自身の感情が、強く、しかし歪んだ形で混ざっている! 「お前の願いが形を歪めたって言うのか? じゃあ、その願いの根っこは何だ!? 何がお前を、ここまで追い詰めた!?」


「…たくさん…いたんだ…」 幽子の声が、記憶の洪水の中をかすかに伝わってくる。彼女の目は虚ろで、暴走する庭を見ながら、でもその先の何かを見ているようだ。「最近…引き受けた魂たち…あまりに深く傷ついて…壊れかけた魂たち…」


 彼女のヴァイオリンの弓が、微かに震える。


「私は…彼らを救いたかった…苦しみから解放してあげたかった…もう二度と、誰にも、あんな思いをさせたくなくて…必死で音を紡いだ…祈った…!」


 その瞬間、俺の視界が再び激しく揺らぐ。義肢のセンサーが、幽子の深層心理の断片を無理やり引っ張り出してきたのか?


 ——幼い幽子が、崩れ落ちた家屋の瓦礫の前で、無力に泣き叫んでいる。手には壊れた小さなヴァイオリン。

 ——病院のベッドで、手を握りながら息を引き取っていく無数の人々の顔。その目には、癒やされることのない痛みが映っている。

 ——そして、幽子自身の心の奥底から響く、悲痛な叫び。『助けたかった…! みんなを…! 誰も…もう苦しませたくない…!』


 その願いそのものが、色濃く、強すぎる光として視界に焼き付く。それは純粋な慈悲でありながら、どこか危険なほどに絶対的で…そして、その根底に横たわる、救えなかったことへの、深い深い「無力感」の闇を感じる!


「…幽子…お前…」


 言葉が詰まる。彼女の「全てを救いたい」という願いの裏側にある、圧倒的な重みと絶望を、この瞬間、義肢を通して否応なく感じ取ってしまった。それは、かつて祖父を救えなかった俺自身の無力感と、奇妙に共振した。


「…そんな願い、叶うわけが——」


 その言葉が完結する前に、事態は決定的な悪化を迎えた。


「あ…あああ…っ!?」


 幽子の悲鳴。


 中心の巨大な花が、突然、爆発的な速度で成長した! 今まで以上に太く、無数の棘を生やした魂鉄の蔓が、蛇のようにうねりながら幽子めがけて襲いかかる! 彼女は必死にヴァイオリンで盾を作ろうとするが、その音色は蔓の猛攻の前ではかき消される蚊の羽音も同然だ!


「幽子!!」


 考える間もない。体が先に動いた。左腕の魂鉄義肢が、防御モードに瞬時に変形する——無数の銀色のプレートが展開し、高速で回転しながら、エネルギーの盾を形成する!


 ドガガガガガーン!!


 鈍く重い衝撃が義肢全体を駆け抜け、歯を食いしばる。金属が軋む嫌な音。蔓は盾に食い込み、途方もない重さと破壊の意志を押し付けてくる。警告表示が視界を真っ赤に染める。『構造限界80%』。くそっ、こんなに重いのか!?


「がっ…! 幽子、下がれっ!!」


「だめ…! 動けない…! この音…私の体を縛っている…!」


 幽子は必死にもがくが、足元から伸びた細い蔓が、彼女の足首を鷲掴みにしている! 巨大な花の中心部で、先ほど見えた歪んだ顔の輪郭が、さらに鮮明になり、無数の口を歪ませて、より高らかに、より不協和な旋律を轟かせ始める! その音は物理的な衝撃波となり、庭の石畳を割り、周囲の花々をさらに狂暴化させる!


「廻! 何か手は!?」


『物理的排除は現状困難! 核となっている花の中心部の量子シグネチャーが、幽子さんの精神そのものと強く同期しています! 無理な攻撃は彼女に致命傷を与えるリスクが極めて高い!』


「そんな…!」


 足元がぐらつく。蔓の重みに加え、花々が奏でる旋律そのものが、現実を歪め始めている。視界がぐにゃりと曲がり、地面が波打つように見える。耳の中では、無数の亡者の囁きと、狂った音楽が渦巻く。


「くそ…くそぉおっ!」


 歯を食いしばり、全身の力を左腕に込める。義肢のプレートがさらに高速で回転し、火花を散らす。耐えろ…耐えろ、この腕! 祖父の事故の時とは違う! 今度は…今度は間に合う!


 その時だ。


 激しい抵抗を続ける巨大な花の中心部——あの歪んだ顔が形成されている部分——の光が、突然、強烈に閃いた。そして、渦巻く光の粒子が、一瞬で形を成した。


 それは…幼い少女の姿だった。


 半透明の魂鉄で出来たような身体。長い黒髪。手には、幽子のものより小さな、歪んだ形のヴァイオリン。そして、その顔は——紛れもなく、さっき深層心理で見た、瓦礫の前で泣いていた幼き日の硯川幽子そのものだった。


 しかし、その表情は、深い悲しみと、底知れぬ怒りに歪んでいる。口が不自然に開かれ、音もなく、しかし魂の奥底から響き渡るような絶叫をあげているように見える。


「…な…」


 声が出ない。凍りつく血液。幽子自身も、その幻影を見て、目を見開き、声にならない呻きを漏らした。


 幼き幽子の幻影は、無機質な、しかし鋭い視線を、現実の幽子から、そして盾の後ろの俺へとゆっくりと向けた。


 次の瞬間。


 幻影が手にした歪なヴァイオリンの弓を、凶器のように高く掲げた——!


「幽子…! それは…お前か…!?」


 俺の絶叫と同時に、幼き幻影の弓が、雷光のごとき一閃を描いて、振り下ろされた!


 ザッシャーンッ!!!!!


 稲妻のような光の刃が、俺の魂鉄の盾を、そして視界を、真っ二つに切り裂いた——!


 衝撃。灼熱。そして、全てを飲み込む漆黒の闇。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る