奇跡の、一歩先へ ③
▶︎▶︎ ミソラの家・夕暮れ
アイツと俺は、静かな住宅街にあるミソラの家の前に立っていた。
インターホンを押すと、ややあって応答があり、そしてドアが開いた。
玄関口に立っていたのは、耳付きの黒いパーカーを着た小柄な少女だった。
猫耳……いや、
だが……目が違った。
熱く
彼女は言葉を発さず、俺たちをじっと見てから、無言でうなずいた。
──2階のミソラの部屋に通されると、室内にはギターやキーボード、アンプなどが整然と並んでいた。
音を発しない冷たく空っぽの入れ物たち……ここにもまた、空虚な残響だけが漂っている。
ミソラはノートとペンを手に取り、ゆっくりと震えるように文字を書き始めた。
《来てくれてありがとう。声……出せなくてごめん》
文字のあとに、インクの
アイツは、じっと彼女を見つめていた。声をかけることなく、ただ見ていた。
「無理はしなくていいよ。話せる範囲で、大丈夫だから」
俺の言葉に、ミソラはかすかに首を振り、またペンを動かす。だが書くよりも先に、その瞳が雄弁にすべてを語っていた。
──学園祭ライブが終わってから、周りの空気が変わったの──
そう書かれた文字を、俺たちは読む。
ミソラの目線が、かすかに伏せられる。
──『また歌って』『次は野外音楽堂』『目指すは武道館』──そんな声が、プレッシャーになっていったの──
声にはならないけれど、彼女の呼吸が浅くなるのがわかった。
──期待されるたびに、喉が締まっていく──
「……怖かったんだよね」
アイツがぽつりと呟いた。ミソラは大きな瞳を見張って肩を震わせ、頷く。
ペンの動きが止まり、子供のように目元を袖で拭う。
俺は、アイツの横顔を盗み見る。
……アイツは、表情ひとつ変えずに、ただ彼女を見ていた。
だけど、わかった。何かが、彼女の瞳の中で静かに揺れている。ミソラの言葉の一つ一つが解りすぎるほど解ってしまうのだろう。
⸻ただ、気になるのは、ミソラの表情……
「……ありがとう。あなたのこと十分、伝わったよ。今はゆっくりしてね」
ミソラは、ゆっくりと頷いた。
俺たちはそれ以上言葉を交わさず、部屋を出た。
▶︎▶︎ ミソラの家・門の前
風が少し冷たくなってきていた。
家を出たあと、俺たちはしばらく無言のまま歩いていた。
アイツがゆっくりと立ち止まり、やがて小さく呟いた。
「アニ……あの子の表情」
「ん?気付いたか?」
「うん……声を出せないこと、全部が苦しいってわけじゃないのかな?……もしかしてどこかで、ほっとしてる気持ちもある……?」
「どうだろう?わからないけど、確かに何か……引っ掛かるんだよな」
アイツは空を見上げる。どこか遠い目だった。
その時、アイツのポケットの中で、携帯電話が鳴った。
「……!」
小さく肩を跳ねさせたあと、アイツは息を詰めて携帯電話を取り出し、液晶を確認する。そして全身で息を吐く。
一瞬表情がこわばっていたのを、俺は見逃さなかった。
「……ごめん。門限あるから、帰る」
それだけ言って、アイツはくるりと俺に背を向けた。
「おい。ちょ、待てよ──」
しかし、呼びかける前にアイツはもう走り出していた。
「これから、俺は例の人体模型に会ってくるからなー!」
俺の声が聞こえたのか聞こえなかったのか、その細い背中は、制服のスカートを翻しながら、夕闇へと吸い込まれていく。
立ち尽くす俺の頭上で、空気を裂くように羽音がひとつ。見上げると、一羽の
角の向こうへ消えていった彼女の
「つばめ……」
思い出すのは、先月の図書館のベランダ、そして先日のあの教室だ。
灯りのない教室で放課後、窓辺でひとり、黙って外を見ていた横顔。
今と同じだった。
⸻俺は、アイツのこと、まだ何も知らない。
▶︎▶︎
窓の外の青白い月明かりが、床を照らし出していた。
静まり返った理科室に、俺とEchoNoidの3人は立っていた。
「……これが、叫ぶ人体模型か……」
俺が呟くと、ダンが肩をすくめた。
「なんつーか、思ってたより……キショいな。夜中に見るもんじゃねぇわ」
「いつ動き出すかわからないぜ、油断すんなよ」
──理科室の壁際の一等席、そこに白いボディの人体模型がこちらを向いて立っていた。
意思があるわけがないのに、じっと【こっちを見ている】気がする。
「ここで願ったんだな? あの夜」
「ああ。【ミソラに戻ってきてほしい】って、声には出さずに願った」
「誰も身体の部位は願ってない、そうだよな」
緊張が空気を濃くする中、俺は手に持ったモップの柄で、模型をコン、と軽く突いた。
「……なあ。誰か『髪が伸びますように』って願ってみるか?」
「バカ言うな!」
ダンが即座に反応して、俺の腕をどついてくる。
「お前がやれよ、そういうのは!」
「やなこった。俺、この前髪のバランス気に入ってんだよ!」
「ふざけてる場合かよ……」
カノンの低い声が、緊張感を取り戻させた。
その時、ユンが「あっ……!」と声を上げた。
皆の視線が彼女に集まる。
「……そういえばさ……この模型、『もらったよ』って言うんだったよね?」
誰も反応しない。沈黙が、もう一度場を包む。
「なんだそれ?」
ダンがわけがわからないといった表情で問いかけた。
「いや……伝説では、身体の部位を願ったとき……『もらったよ』って、模型が言うんだって……」
「……おい、ユン、それ聞こえたか?」
カノンの眉がピクリと動いた。
「聞いてない……カノンは?」
「聞いてないな……」
──『もらったよ』。そう言えばそんな話だった。確かにあやふやな都市伝説だ、何が正しいのかわからない。
しかし……誰もその声を聞いていない、ということは──?
「俺らの願いも呪いも成就はしてない?」
「それじゃ、ミソラの声はなぜ?!」
俺は人体模型の顔をもう一度見つめた。月の光に照らされた彼は、何か言いたげな表情だった。
その時。
「──もらったよ」
しわがれた声が、静かに空気を切り裂いた。
「うわああああああ!!」
「……うわっ!? 今、言ったよな!? 言ったよな!?」
ダンが目をひん剥いて後ずさる。
「誰だよ願ったの!?」
「俺じゃねぇよ!」
「いやぁぁ、やだ怖い!!」
パニック寸前の全員。
すると再び、俺らの後ろから皺がれた声がした。
「な〜にやってんだ、お前らぁぁ!!」
「ぎゃああああ!」
「ぅわっ、動いたぁああ!?」
「いや違ぇぇ!あれは……」
俺が叫ぶより先に、赤ジャージの男がガチャリと扉を開けて入ってきた。
「松田だぁあああ!」
現れたのは、上下赤ジャージの男──松田先生だった。つばめ……いやアイツの担任で、生活指導担当だ。
手におなじみの巨大三角定規を持ち、理科室の入口でニヤニヤしている。
「お前らなぁ……深夜の理科室で何してんだよ……心霊スポットか、ここは?センセの仕事を増やすなよ」
「違います違います!あの、探偵部の調査の一環で!」
「ふーん、調査ねぇ。で、これをどう報告書にまとめるつもりだったんだ?」
──ゴツン!
「痛ってぇ!」
俺の頭を定規で小突きながら、松田は笑った。
「校則違反は、もっと気づかれないようにやれ!オマエら監視カメラに派手に映ってるんだよ!」
「監視カメラ??いやいや、気づかれたくて来てるわけじゃ……」
定規の二発目が飛んでくる前に、俺は頭を守ろうと手を上げる。
そのときだった。
キラリと、何かが光った。人体模型の足元に、小さな反射。
「……あれ?」
俺は反射的にしゃがみ込み、松田の定規攻撃を避けながら手を伸ばす。
拾い上げたそれは──
「なんでこれが……?」
手の上で、メタリックブラックのMDプレイヤーが鈍い光沢を見せていた。
──監視カメラとMDプレイヤー──?
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