名を持たぬ診断書

長谷川 優

症例ゼロ

風は乾いていた。医療センターの正面入口に佇むと、セラノの町がどこまでも薄く、色の抜けた世界に見えた。舗装の剥げた駐車場、傾いた掲示板、そして色あせたWELCOMEの文字。獅堂蓮は革の鞄を片手に、何度目かになる赴任地を見上げた。天気は悪くない。だが、彼の胸中にはいつも曇天が立ち込めている。


「ドクター・シドウ?お迎えに上がりました、私、カレン・ハンセンです」


声は高く、背後から来た。振り返ると、栗色の巻き髪をひとつに束ねた女性医師が白衣を羽織って立っていた。歳は三十手前だろう。整った顔立ちと、笑顔に滲む神経質な熱意が印象的だった。


「この町に、外科医が来るなんて十年ぶりです。うちではゴースト・シューターって呼ばれてますよ、先生の噂」


「医者にあだ名は不要です。誤診の火種になる」


そう答えた獅堂は、口調に抑揚を持たなかった。歩き出した彼の背を追いながら、カレンはわずかに眉をひそめた。


病院内は冷たいほど静かだった。受付の女が紙コップの水を飲みながら書類をめくっており、患者はほとんど見えない。掲示板には「X線室、故障中」の張り紙。獅堂は一瞥し、何も言わなかった。


「初日の診察数は少ないですけど…一人、気になる子がいるんです。14歳の女の子。名前はアリサ・トムリンソン」


「症状は?」


「疲れ、腹痛、吐き気。検査では異常なし。ただ、顔色と眼球の動きに違和感があって……。」


「いつから?」


「三ヶ月前から。学校は不登校。心理評価もしたけど、精神疾患とは断定できませんでした」


獅堂は黙ったまま、カルテを覗き込んだ。彼の眼球は滑らかに文字を走査し、指先がページの角をゆっくり撫でていた。カレンは思った。この人は、読み方が違う。紙の上の血管を触診するように、書かれた情報ではなく、書かれていない気配を見ている。


「……血中乳酸値、これは?」


「境界域ですが、正常と判断されてます」


「正常は医者の都合。患者にとってはただの不調の別名だ」


呟いた彼の声は低く、少しだけ棘を持っていた。


アリサは病室に一人でいた。母親は昼の仕事で不在。細い体にぶかぶかのパーカーを羽織り、ベッドの端でスマホをいじっていた。顔を上げると、彼女は一瞬だけ目を細めた。警戒でもなく、拒絶でもなく、ただ距離の目だった。


「新しい医者?」


「ああ」


「どうせ、また心因性って言うんでしょ?」


獅堂は返さなかった。代わりに椅子を引いて、ゆっくり腰を下ろした。その動作が妙に静かだったせいか、アリサの指先が止まった。


「いつからお腹が、泣いてる?」


彼は言った。


その言葉に、アリサの目から一瞬だけ力が抜けた。


「君の身体は、異常がないってことにされてる。でも、異常がないなら、ここにいないはずだ。違うか?」


アリサは頷かなかったが、否定もしなかった。


獅堂はカルテを閉じ、壁に目をやった。換気口から砂の匂いが漂っていた。乾いた、静かな痛み。症例ゼロとは、つまり「まだ名前のついていない病」のことだ。


彼はその日、部屋を出る前に一言だけ言った。


「身体は、何かを隠している。私が探すのは、その隠された何かだ」


そして、誰にも聞こえないように付け加えた。


「診断は、祈りじゃない。ただ、それに似ていることがある」

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