第37話 虚無の対話:アビスの囁き、そして真実

遼の意識は、黒い瘴気を放つ光の渦へと吸い込まれた。そこは、もはや記憶の断片が散らばる迷宮ではなかった。純粋な闇と、底知れぬ虚無が支配する、アビスの真の領域。中心には、歪んだ球体のようなものが脈動しており、そこから無数の黒い影が伸び、空間全体を侵食していた。それは、アビスの意識の核、存在そのものだった。


『…ようこそ…我が…深淵の…奥底へ…』


アビスの声が、遼の精神に直接響き渡る。それは、これまでのような嘲笑や誘惑ではなく、全てを無に帰すような、絶対的な虚無を帯びていた。その声を聞いただけで、遼の存在そのものが、かき消されそうになる。


「これが…アビスの…核…!」


遼は、精神の極限状態で、必死に意識を保った。彼の身体は、この精神世界では形を持たないが、彼の魂の核が、まるで燃える炎のように、虚無の圧力に抗っている。


『…汝は…愚かだ…何故…抗う…? 全ては…無に帰す…それが…真理…』


アビスの声は、遼の心を揺さぶる。彼の脳裏に、この世界のあらゆる悲劇、絶望、そして無意味な戦いの光景が、鮮明に映し出される。飢餓に苦しむ人々、理不尽な死、そして、終わりのない争い。それらは、アビスが創り出した幻影ではなく、この世界に確かに存在する、残酷な現実だった。


「…そんなものが…真理だと…言うのか…!」


遼は、アビスの言葉に激しく反発した。彼の知る地球も、決して完璧な世界ではなかった。しかし、そこには、それでも人々が希望を信じ、未来を築こうと努力する姿があった。


『…真理だ…全ては…始まりも…終わりも…無に…帰する…』


アビスは、遼の抵抗をあざ笑うかのように、さらに強烈な絶望の波を送り込んできた。遼の精神は、その圧力によって、粉々に砕け散りそうになる。


その時、アビスの核の内部から、別の声が響いた。

それは、リアの声だった。しかし、その声は、アビスの魔力に侵食され、苦痛に歪んでいる。


「…艦長…! 行かないで…! ここは…危険…!」


リアの声が、遼の意識を繋ぎ止める。彼女の意識は、アビスの侵食を受けながらも、必死に遼に呼びかけようとしているのだ。


『…まだ…生きているか…贄よ…』


アビスは、リアの抵抗を感知し、その意識をさらに強く締め付けようとする。リアの苦痛が、遼の精神にもダイレクトに伝わってくる。


「リアさん…! 諦めるな…! ユイが言っただろう…! アビスの記憶の核を…破壊するんだ…!」


遼は、リアに呼びかけ、同時にアビスの核へと意識を集中させた。彼自身の持つ、地球の技術と、この世界で得た魔力の知識が、彼の脳裏で交錯する。


『艦長! リア様の脳波パターンから、アビスの記憶が、特定の周波数で共鳴していることを発見しました! この共鳴を破壊すれば、アビスの侵食を一時的に停止させられるかもしれません!』


ユイの声が、遼の意識に、一筋の光明をもたらした。ユイは、リアの歌声によって開かれた、遼とリアの精神の繋がりを利用し、アビスの記憶の核心へと、解析の手を伸ばしていたのだ。


「共鳴を…破壊する…! しかし、どうやって…!?」


遼は、ユイに尋ねた。この精神世界では、物理的な攻撃は意味を持たない。


『リア様の記憶の断片に…アビスの魔力とは異なる…純粋な女神の魔力が…微弱ながら残っています! それを…増幅させることができれば…!』


ユイの言葉に、遼はハッとした。女神の魔力。それは、リアが歌い、構造体を活性化させた時の力だ。そして、彼は、かつて神から与えられた「光」の力を、その身に宿している。


「ユイ…! 俺の力を…! 女神の魔力を…増幅させるために…使うんだ…!」


遼は、自らの魂の核から、光の魔力を放出した。それは、彼の体内に眠っていた、神からもたらされた異世界の力だった。


光は、アビスの黒い虚無に抗うように、強く輝き始めた。その光は、リアの精神の中にある、微弱な女神の記憶の残滓と共鳴し、増幅されていく。


『…馬鹿な…! この力は…!』


アビスの声に、初めて動揺の色が明確に現れた。遼が放つ光は、アビスの虚無を焼き尽くすかのように、その領域を侵食し始めたのだ。


光は、アビスの核へと向かって、一直線に進む。虚無に包まれた空間に、女神の光が、再び姿を現した。


その光が、アビスの核に到達した瞬間、核から無数の映像が噴き出した。それは、アビスの記憶であり、この世界の真実の断片だった。


遥か昔、世界は光と闇、秩序と混沌に分かたれていた。


アビスは、混沌の根源であり、全てを虚無に帰そうとする存在。


女神は、秩序の守護者であり、世界を創造し、生命を育んだ。


アビスと女神の間には、壮絶な戦いがあった。


女神は、自らの命を削り、アビスをこの構造体の中に封印した。この構造体は、アビスを永遠に封じるための、巨大な「記憶の牢獄」だった。


リアは、女神の血を受け継ぐ、最後の巫女。彼女の歌声は、女神の魔力を増幅させ、封印を維持する力を持っていた。


しかし、長い年月の中で、封印は弱まり、アビスの記憶が、構造体を通じて、リアの意識に侵食し始めた。


それらの映像は、遼の脳裏に、強烈な痛みと共に流れ込んできた。彼は、この世界の、そして女神とアビスの、悲しく、そして残酷な真実を知ったのだ。


『…見ろ…! これが…真実だ…! 汝らは…全て…我らの…掌の上で…踊っているに過ぎない…』


アビスの声は、遼の精神に、さらに深い絶望を植え付けようとする。アビスは、遼に、全てが無意味であると、彼の行動が、無駄な抵抗であると、信じ込ませようとしているのだ。


しかし、遼の心には、リアの歌声が響いていた。そして、女神の慈愛に満ちた眼差しが、彼の脳裏に焼き付いている。


「違う…! 真実は…お前が言うような…絶望だけじゃない…!」


遼は、アビスの言葉に反論し、自らの心の奥底から、さらに強い光を放出した。


その光は、アビスの核へと向かい、そこに直撃した。


ギュルルルル…!


アビスの核から、異様な音が響き渡る。その形は、歪み、黒い瘴気が、苦悶するように揺らめいた。


『…貴様…! この私に…!』


アビスの声に、明確な怒りの感情が込められた。遼の攻撃は、アビスの核に、確かにダメージを与えたのだ。


その瞬間、遼の意識は、構造体の内部へと引き戻された。リアの体を抱きかかえたまま、彼は、艦橋の床に倒れ込んだ。


「艦長! 意識を取り戻しましたか!?」


ユイの声が、遼の耳に届く。彼の身体は、激しい疲労感に襲われているが、意識ははっきりと保たれていた。


リアは、まだ遼の腕の中で震えている。しかし、彼女の周囲を覆っていた黒い魔力の渦は、明らかに薄くなっていた。


「ユイ…! リアさんは…!」


遼は、リアの様子を確認しようと、彼女の顔を覗き込む。彼女の瞳は、まだ焦点が定まらないが、その表情は、苦痛に歪みながらも、以前よりも穏やかになっている。


「艦長! リア様の脳波パターン、安定化の兆候が見られます! アビスの記憶の侵食が、一時的に停止したようです!」


ユイの報告は、遼に、大きな安堵をもたらした。彼らの戦いは、まだ終わっていないが、リアを救い出すための、大きな一歩を踏み出すことができたのだ。


しかし、構造体の内部は、まだ激しく震えている。そして、ユイが感知していた「異質なエネルギー」の反応は、依然として構造体の奥深くから、脈動し続けていた。アビスの核を一時的に弱体化させたに過ぎない。真の戦いは、これからだ。


遼は、リアを抱きかかえながら、艦橋のメインモニターを見上げた。そこには、未だ謎に包まれた構造体の、さらに奥深くへと続く通路が映し出されている。


アビスは、まだ、この構造体の奥深くで、次の機会を窺っているのだろう。

そして、女神の遺産とアビスの真実を知った遼は、これから何をすべきなのか。


遼とユイ、そしてリアの、新たな戦いが、今、始まろうとしていた。

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