こんな世界で生きてゆく
志乃原七海
第1話:こんな世界で生きてゆく!
こんな世界で生きてゆく!
第一話 停止宣告都市の朝
鉛を溶かし込んだような重たい静寂を、けたたましいアラーム音が引き裂いた。それはまるで、毎朝律儀に執行されるギロチン台への招待状。俺、心肺 停止(しんぱい ていし)は、コンクリートのように固まった瞼を、気合と共にこじ開ける。薄汚れた天井。いつも通りの景色。どうやら世界は、またしても俺の心臓を止めるのを忘れたらしい。その事実に、ほんのひとかけらの安堵と、それ以上に巨大な絶望が同時に胸に去来する。今日で、十七歳と三百六十四日。俺の人生のカウントダウンタイマーが示す、リミットまで、あと二十四時間。
「……よう、相棒。今日も律儀に動いてやがるな。ご苦労さん」
かすれた声で、自分の胸に手を当てて呟く。ドクン、ドクンと規則正しく、しかしどこか空虚な鼓動が手のひらに伝わってきた。それはまるで、壊れる寸前の時計が刻む最後の秒針の音にも似て、俺の神経を苛んだ。ベッドから這い出す体は、鉛のように重い。壁に無造作にかけられた学生証。そこに刻まれた『心肺 停止』という四文字が、冷え冷えとした嘲笑を浮かべて俺を見下ろしている。ああ、これが俺の墓標であり、呪いの刻印だ。
軋む階段を下りてリビングへ向かうと、父さん――『心筋 梗塞(しんきん こうそく)』が、いつものように眉間に深い皺を刻み、新聞の文字を殺さんばかりの形相で睨みつけていた。父さんの「名」は、その神経質で常に何かに追い立てられているような性格を的確に表していると、俺は密かに思っている。俺の足音に気づいた父さんが、鋭いナイフのような視線を向けてきた。
「停止か。おはよう。……胸の具合は、どうだ?」
その声には、心配と、それ以上に確認作業のような響きがあった。まるで、壊れかけの機械の調子を尋ねるように。
「別に。カウントダウンが順調に進んでる以外は、絶好調だよ、父さん。心臓は今日も元気に時を刻んでる」
俺はわざと明るい声色を作って答えた。そうでもしないと、この家の重苦しい空気に押し潰されてしまいそうだったからだ。
食卓には、母さん――『弁膜 症(べんまく しょう)』が用意した、白粥と数種類の煮物、そして小皿に山と盛られた色とりどりのサプリメントが並んでいた。母さんの「名」は、彼女の儚げな雰囲気と、時折見せる息苦しそうな表情によく似合っていた。この家では、いつだって会話の中心は俺の「名」であり、俺の「命」だ。サプリメントの一つ一つが、母さんの祈りの欠片のように見えて、俺はそっと目を逸らした。
「停止ちゃん、おはよう。ちゃんと噛んで食べるのよ。胃に負担がかからないようにね」
母さんは、力なく微笑みながら言った。その笑顔は、まるでひび割れたガラス細工のように脆く、痛々しい。
テレビのスイッチが入れられると、涼やかで感情の抑揚に乏しい声のニュースキャスターが、今日の「訃報欄」を淡々と読み上げ始めた。この世界では、人の「名」がその死に様を予見するため、「お悔やみ欄」ではなく「訃報欄」と呼ばれる。まるで、予定調和の演劇の終幕を告げるかのように。
「……本日未明、『老衰(ろうすい)』の名を持つ、高名な文筆家でいらっしゃいました、橘 桔梗(たちばな ききょう)様、享年九十八歳が、都内のご自宅にて、その予見通り、眠るように穏やかに……」
「はー……」思わず、肺の底から澱んだため息が漏れた。「老衰さん、ねえ。大往生おめでとうございます、ってか。めでたいねえ、寿命を全うできるなんて。それにひきかえ、俺は明日だぜ? 十八の誕生日に『心肺停止』って、どんな悪趣味なジョークだよ。生まれた時から死に方が決まってるなんて、神様だか運命だか知らねえけど、マジでセンス終わってんな、このイカれた世界は」
「こら、停止! 朝から不謹慎なことを言うんじゃない!」
父さんが、新聞から顔を上げて、カミソリのような鋭い声で俺を叱責した。その目には、怒りと、それ以上の何か…怯えのような色が浮かんでいるように見えた。
「不謹慎? 親父、この世界そのものが不謹慎の塊みたいなもんだろうが! 俺なんか、名前が『心肺停止』だぜ? 明日、俺の十八歳の誕生日は、同時に俺の命日になる可能性が限りなく高いんだ。それを祝えって方が無理な話だろ。なあ、笑えるよな、ホント。笑うしかないだろ、こんなクソみたいな運命!」
俺の荒ぶる声に、母さんがびくりと肩を震わせ、悲しそうに俯いた。その細い肩が、頼りなく震えている。
「お前の気持ちも…分かるつもりよ、停止ちゃん。でも…」
「分かるなら、もうちょっとマシな名前つけてくれよって話だろ、母さん! 俺が赤ん坊の頃、この名前を聞かされた時、あんたたちはどう思ったんだよ! 『ああ、うちの子は十八で心臓が止まるのね、残念ね』って、それだけか!? 神様だか何だか知らねえが、こんな命名システム、頭おかしいとしか思えねえんだよ!」
吐き出す言葉は、自分でも制御できないほど荒々しく、棘を帯びていた。分かっている。父さんも母さんも、何も悪くない。彼らもまた、この世界の被害者なのだ。だが、このやり場のない怒りと絶望を、どこにぶつければいいのか、俺には分からなかった。
重苦しい朝食を終え、俺は家を飛び出した。通学路の途中、いつものメンバーと合流する。
腕に新しい絆創膏を痛々しく貼り付けた『軽傷 澄(けいしょう すみ)』。今日もどこかで転んだのか、膝をさすっている『捻挫 癖(ねんざ ぐせ)』。そして、顔のどこかしらに必ず青あざを作っている、喧嘩っ早い『打撲 痕(だぼく こん)』。こいつらも、まあ、大概な「名」を背負っている。それでも、俺の『心肺停止』に比べれば、まだマシだと思えてしまうのが、なんとも皮肉だった。
「よお、停止! 今日もちゃんと生きてて何よりだぜ!」
澄が、いつもの太陽みたいな笑顔で、しかしどこか空元気な調子で声をかけてきた。その笑顔の裏に、こいつなりの気遣いがあることは分かっている。
「うるせえよ、澄。お前らだって、このイカれた命名システムに文句の一つや二つ、いや、百や二百はあるだろうが」
『打撲痕』が、眉間に皺を寄せて顔をしかめた。
「そりゃあな! 当たり前だろ! 俺なんか、ただでさえ短気で喧嘩っ早いってのに、この名前のせいで余計に絡まれんだぞ! 『おい打撲、お前、殴られるのが好きなんだろ? 一発殴らせろよ』ってな! ふざけんじゃねえってんだよ、マジで!」
『捻挫癖』も、苦虫を噛み潰したような顔で続く。
「ほんとだよな! ちょっと急いだだけで足首グキッてよ! まるで呪いだよ、呪い! なんで生まれた時からこんなペナルティ背負わなきゃなんねえんだよ! 普通に考えたら、こんな世界あるわけねーだろ! どこのファンタジー小説の設定だよってんだ!」
「あるわけねーだろ、ねえ……」俺は、灰色に濁った空を仰いだ。まるで、俺たちの未来を暗示するかのように、太陽の光は弱々しい。「お前らなあ、俺だって好きでこんな名前背負って、こんなイカれた世界に生まれたわけじゃねえんだよ。物心ついた時には、もうこうだったんだ。赤ん坊の頃から『はい、君の名前は心肺停止ねー。リミットは十八歳の誕生日ねー。残念でしたー、お気の毒様ー』だ。選択肢なんて、どこにもありゃしなかった。スタートラインに立った瞬間から、ゴールテープの位置と、そこでどうぶっ倒れるかまで決められてるんだよ」
「いや、だからって、それが普通だなんて、俺は認めねえぞ!」打撲痕が食って掛かる。
「普通じゃねえのは百も承知だわ!」思わず、腹の底から声がほとばしった。「だがな、これが俺たちの『普通』なんだよ! 俺たちにとっては、これが日常なんだ! 『あるわけねーだろ』ってここでいくら騒いだところで、明日になったら俺の名前が『健康 優良』にでも変わるのか? 俺の心臓のタイマーが止まるのか? 変わんねえだろ! だったら、このクソみたいな設定の中で、どうにかこうにか息して、生きていくしかねえだろうが! 仕方ねえんだよ、もう! 諦めるしか、ねえんだよ……」
最後の言葉は、自分でも驚くほどか弱く、震えていた。強がってはいても、心の奥底では、諦めという名の冷たい泥濘に足を取られそうになっているのを、俺自身が一番よく分かっていた。
その日の午後、俺は月に一度の定期検診のために、中央総合病院の重たい自動ドアを潜った。巨大な白い建物は、まるで「名」を持つ者たちを待ち受ける最後の砦、あるいは、静かに死を待つための収容所のように、冷ややかにそびえ立っていた。消毒液のツンとした匂いと、微かな薬品の匂い、そしてどこからか漏れ聞こえる苦しげな咳の音が、この場所の日常を物語っている。
診察室のドアをノックすると、「どうぞ」という低く、疲れの滲んだ声が返ってきた。担当医の『緊急 医療(きんきゅう いりょう)』先生だ。その名の通り、彼はこの病院の救急医療部門の責任者であり、俺のような「名」を持つ患者の経過観察も担当している。先生は、俺の分厚いカルテと目の前のモニターに映し出された検査数値を交互に見比べながら、深いため息をついた。その表情は、まるで解けない難問に長年向き合っている学者のように、疲労と諦観の色が濃かった。
「……心肺 停止。まあ、相変わらずだな。教科書通りというか、お前の『名』が示す通りの、実に素直な進行状況だ。まあ、お前の名じゃ、それ以外の結果を期待する方がおかしな話か」
先生は、ぶっきらぼうに、しかしどこか自嘲するように言った。
「先生も大概、デリカシーってもんが欠落してますよね」俺は検査台の上に仰向けに寝転がりながら、わざと軽口を叩いた。「まあ、慣れっこですけどね。どうせ俺は、明日か明後日か、まあ、遅くとも十八歳の誕生日には『停止』する運命なんでしょ? 仕方ないですよ、仕方ない。先生だって、俺の心臓を治せるわけじゃないんですから」
その「仕方ない」という言葉に、医療先生の眉がピクリと鋭く動いた。それまで抑えていた何かが、彼の内側で弾けたように見えた。
「……仕方ない、ね。そりゃあ、お前の名を見れば、そう言いたくなる気持ちも分からんでもない。毎日、うんざりするほど聞かされてる言葉だ。だがな、こっちは、その『仕方ない』に、毎日毎日、少しでも抗おうとしてんだよ。お前が諦観するのは勝手だ。だが、俺たちの仕事を、その『仕方ない』の一言で片付けられるのは、虫唾が走るほど腹が立つ」
その声には、抑えきれないほどの苛立ちと、それ以上に深い、どうしようもない疲労感と無力感が滲んでいた。それは、この世界の理不尽なシステムに対する、一人の医師としての、そして一人の人間としての、魂の叫びのようにも聞こえた。
「でも、結果は変わらないんでしょ? 先生だって、俺の『停止』を、この名前が示す予言を、覆せるわけじゃない」俺は、目を逸らさずに先生を見つめて言った。それは挑発ではなく、ただ純粋な疑問だった。
「ああ、そうだ。その通りだ」医療先生は、一度目を伏せ、それから再び俺の目を見て、はっきりと言った。「今の医療技術じゃ、お前の『名』が示す予見を覆すことは、残念ながらできん。だがな」先生は、冷たい聴診器を俺の胸に当てながら続けた。「お前が『停止』するその瞬間まで、お前の苦痛を少しでも和らげることはできる。お前が、少しでも人間らしく、尊厳を持ってその最期の時を迎えられるように、俺たちは全力を尽くす。それが、俺たち医療者にできる、唯一の抵抗であり、矜持だ。それを、『仕方ない』の一言で終わらせるな。お前の人生も、俺たちの仕事も、そんな陳腐な言葉で終わらせてたまるか」
聴診器から伝わる先生の指先の微かな震えが、その言葉の重みを物語っていた。
隣の処置室からは、看護師の『人間 ドック(にんげん どっく)』さんの、母親のように優しく、包み込むような声が微かに聞こえてきた。おそらく、別の患者に検査結果か何かを説明しているのだろう。彼女はいつも、患者の不安を少しでも取り除こうと、必死に、そして献身的に努めている。だが、その優しい声も、この巨大な病院の壁に深く染み付いた絶望と諦観の前では、あまりにもか細く、儚く響いた。
全ての検査が終わり、会計窓口へ向かう。窓口には、事務員の『保険 適用(ほけん てきよう)』さんが、いつもの貼り付けたような、感情の読めない事務的な笑顔で座っていた。
「心肺 停止さんですね。本日の診療費は、えーと……」
彼女は慣れた手つきでキーボードを叩きながら、俺の保険証と診察券を確認する。彼女の背後の壁には、「名」の種類によって細かく分類された保険適用の可否リストが、巨大な表になって掲示されていた。俺のような「重篤かつ予見確実」な「名」を持つ者は、当然のことながら、適用される保険の範囲も、受けられる治療の選択肢も、極端に限られている。それもまた、この世界の厳然たる「仕方ない」現実の一つであり、俺たちが受け入れざるを得ない理不尽だった。
重たい足取りで病院を出ると、空はすでに茜色と深い藍色が混じり合った、不気味なほど美しい夕焼けに染まっていた。鱗雲が、まるで血に濡れた羽根のように空を覆っている。巨大なビル群のシルエットが、天に向かって突き出す墓標のように見えた。
「仕方ない、か……」
医療先生の、怒りと苦渋に満ちた言葉が、頭の中で何度も反芻される。諦めるな、と。抵抗しろ、と。
確かに、俺の運命は、この『心肺停止』という名前によって、ほぼ決定づけられている。明日やってくるであろう「その時」も、おそらく避けられないのだろう。
でも、だからって、全てを投げ出して、ただ無気力にその時を待つことだけが、俺に残された道なのだろうか。
「……まあ、どうせ止まるんなら、最後まで往生際悪く、みっともなく足掻いてやるか。格好悪くてもいい。無様でもいい。俺は、俺の意志で、この最後の二十四時間を生きてやる」
誰に言うでもなく、しかし確かな意志を込めて呟き、俺は夕暮れの喧騒に染まり始めた街を、しっかりと前を向いて歩き始めた。
こんなクソみたいな世界で生きてゆく。
たとえ、明日で終わるかもしれない、借り物の命だとしても。
この心臓が、最後の鼓動を打ち終えるその瞬間まで、俺は、俺として。
(第一話 了)
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