第十二話:四天王【壱】幻術師フィボルト

Solitary Roseとのチャット、そして彼女から半ば投げつけられるように送られてきた論文は、俺、相馬海斗のMA一本の戦略に新たな視点をもたらしてくれた。市場のボラティリティ、時間帯ごとの特性、そしてそれらを加味したリスク管理――。高柳師匠も、俺がその論文を読み解いているのを知ると、「ほう、面白いところに目をつけたな。MAは生き物じゃ。相場の呼吸に合わせて、お前も柔軟に変化せねばならんぞ」と、さらなる深化を促した。

具体的には、異なる時間軸のMAの動きを比較し、大きな流れの中で現在のMAがどういう位置にあるのかを把握する訓練。ボラティリティが高い局面ではロットを落とし、逆に低いレンジ相場ではエントリーを見送る判断。そして、東京、ロンドン、ニューヨークという主要市場のオープン時間帯がMAに与える影響の観察。師匠との問答と過去検証を繰り返す中で、俺の20SMAは、以前よりもずっと多くの情報を語りかけてくるようになっていた。

そんなある日、「狼たちの牙」運営から衝撃的な通知が届いた。次のミニイベントの対戦相手が、ついに四天王の一角であることを告げていたのだ。

その名は、「幻術師(げんじゅつし)フィボルト」。

チャットウィンドウでは、その名が出た瞬間から戦慄にも似たどよめきが広がった。

『フィボルト様がついに降臨か…!』

『四天王最強のテクニシャンだろ…相手、終わったな』

『彼のチャートは芸術だよ。フィボナッチとチャートパターンを組み合わせた分析は、まさに魔法だ』

噂によれば、フィボルトはあらゆるテクニカル指標を自在に操り、特にフィボナッチ数列と幾何学的なチャートパターンを組み合わせた分析で、相場の未来を予見し、相手の心理を幻惑するかのようなトレードを得意とするという。まさに「チャートの魔術師」の異名を持つ男。

俺はゴクリと喉を鳴らした。Solitary Roseとはまた違う、底知れない強敵の出現。だが、不思議と恐怖よりも武者震いに似た興奮が勝っていた。今の俺のMAが、どこまで通用するのか。

対戦当日。バトルプラットフォームに現れたフィボルトのアバターは、フードを目深にかぶり、顔の半分が影になったミステリアスな魔術師そのものだった。彼はチャットで一切発言せず、ただ静かに佇んでいるだけで、周囲に圧倒的なプレッシャーを放っていた。

「ミニイベント『魔術師の挑戦』、KITE 対 幻術師フィボルト、スタート!」

運営のアナウンスと共に、ユーロ円の15分足チャートが開かれる。フィボルトは開始直後から、まるで盤面に駒を配置する棋士のように、チャート上に次々とフィボナッチ・リトレースメント、ファン、アークといった幾何学的なラインを描き込んでいく。その手捌きは淀みなく、もはや人間業とは思えない。

そして、それらのラインが複雑に交差するポイントで、彼は躊躇なくエントリーとエグジットを繰り返す。時には順張り、時には逆張り。その全てが、まるで予め決められていたかのように正確無比に見えた。

俺は20SMA一本で応戦しようとする。だが、フィボルトの仕掛けるテクニカルの罠は、MAの動きを巧みに利用し、俺を翻弄した。SMAが上向きになり、買いサインが出たかと思えば、それはフィボルトが描いたレジスタンスラインでのフェイクで、直後に急落。SMAが下向きになり、売りサインが出たかと思えば、今度はサポートラインで反発し、短期的な急騰。

「くそっ…! MAが全く機能しない…!? まるで、俺の動きが全部読まれているみたいだ…!」

俺がエントリーする度に、フィボルトはその逆を突くか、あるいは俺の損切りポイントを正確に刈り取っていく。MA一本のシンプルさが、逆に彼の複雑怪奇な「幻術」の餌食になっているかのようだった。

証拠金が、みるみるうちに減っていく。チャットウィンドウでは、俺の苦戦を嘲笑うかのようなコメントが流れ始めた。

『やっぱり四天王は格が違うわ』

『KITE、ここまでだな。MA一本じゃ限界があるってことだ』

『フィボルト様のテクニカルの前では、赤子同然よ』

Solitary Roseも、この対戦を観戦リストに入れているのが分かった。彼女は何もコメントしていなかったが、画面の向こうでどんな表情をしているのだろうか…。

俺の心に、焦りと疑念が暗い影を落とし始める。「MA一本では、このレベルの相手には…本当に通用しないのか…?」

茫然とチャートを見つめる俺の脳裏に、師匠の言葉が蘇った。「MAは生き物じゃ…相場の呼吸に合わせて…」。そして、ポケットの中で、あの黒い「道しるべの石」が、かすかに温かく感じられた。

ふと、Solitary Roseから送られてきた論文の一節が頭をよぎった。

「ボラティリティの急拡大時は、主要な支持線・抵抗線(MAも含む)が一気にブレイクされるが、それは新たな均衡点を探すための市場の必然的な動きである。そのブレイク後の最初の押しや戻しこそが、次の大きなトレンドの起点となることが多い」

均衡点…MAがブレイクされた後の…最初の押し…?

俺は、フィボルトに何度もMAをブレイクさせられ、その度に損失を出していた。だが、もし、そのブレイク自体が、彼の「幻術」の一部ではなく、市場の大きな力の表れだとしたら…? そして、そのブレイクの後にこそ、本当のチャンスが隠されているとしたら…?

目の前のチャートで、まさにMAが下方向に大きくブレイクされ、価格が暴落している。絶望的な状況だ。だが、俺の目には、ほんのわずかな、しかし確かな光が見え始めていた。


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