第十話:孤高の薔薇との再戦、そして目覚めの刻
「狼たちの牙」三日目の夜。俺、相馬海斗こと「KITE」は、眠れないままPCの前に座り続けていた。次のミニイベントの対戦相手は、「Solitary Rose」。あの高慢で、しかし圧倒的な実力を持つ女性トレーダーだ。書店での屈辱的な再会が、昨日のことのように蘇る。
(今度こそ…いや、今の俺の実力で勝てるとは思えない。だが、何か一つでも…師匠の教えが通用するところを見せてやる!)
彼女の過去のトレード履歴を、それこそ穴が開くほど見返した。複数の時間軸チャート、複雑に絡み合うカスタムインジケーター、独自のサインツールらしきもの…。その一つ一つが高度で、俺の知識では理解できないものも多い。だが、どんなに複雑に見えても、彼女もまた、このFXという同じ市場で戦っているはずだ。
夜明け前、高柳師匠にオンラインで声をかけた。眠い目をこすりながら画面に現れた師匠に、俺はSolitary Roseのトレードについて、そして自分の不安を正直に打ち明けた。
「相手の土俵で戦うな、海斗。お前の武器は『移動平均線一本』じゃ。そのシンプルさ故の強靭さを信じろ。相場の大きな流れを捉え、小さなノイズに惑わされるな。そして…あの石に込められた意味を、お前なりに感じてみるがいい」
師匠の言葉は、いつもながら簡潔だが、不思議と心を落ち着かせる力があった。俺はディスプレイの横に置いた黒い「道しるべの石」をそっと握りしめた。ひんやりとした感触が、熱くなった頭を冷やしてくれるようだ。
そして、運命の対決の時間が訪れた。
「ミニイベント『薔薇の試練』、KITE 対 Solitary Rose、スタート!」
運営のアナウンスと共に、俺と彼女のトレード成績がリアルタイムで比較される専用ウィンドウが表示される。選ばれた通貨ペアはポンド円。ボラティリティの高さで知られる、荒れ狂う獣のような通貨だ。
Solitary Roseは、開始直後から猛然と牙を剥いてきた。複数のインジケーターが複雑な計算式に基づいて売買サインを点灯させると、彼女は寸分の迷いもなくエントリーし、わずかな値幅を確実に抜き取っていく。そのトレードは、まるで精密機械のように冷徹で、一切の無駄がない。
チャットウィンドウでは、彼女への賞賛の声が嵐のように吹き荒れていた。
『Solitary Rose様、今日も完璧です!』
『あの分析システム、いくら出せば買えるんだ…?』
『KITE、相手が悪すぎるな。公開処刑か…』
俺は、周囲の喧騒を意識の外に追いやり、目の前のポンド円15分足チャートと、そこに引かれた赤い20SMAだけに集中した。だが、彼女の作り出す細かい値動きや、一瞬のダマシのような動きに翻弄され、序盤は小さな損失を立て続けに出してしまった。
「クソッ…! 全て読まれているのか…? これが、プロの世界…」
焦りが胸を締め付ける。心が折れそうになった瞬間、師匠の「大きな流れを捉えろ」という言葉が雷鳴のように頭の中で響いた。
(そうだ…短期的なノイズに惑わされるな! MAは、もっと大きな相場のうねりを教えてくれているはずだ!)
俺は一度深呼吸し、短期的なローソク足の動きから意識を切り離した。そして、20SMAの傾き、その角度、そして価格がSMAからどれだけ離れているか(乖離しているか)という、より本質的な部分に意識を集中し直した。
ポンド円は、大きな下落トレンドの最中にあった。20SMAは明確な右肩下がりを描き、まるで強力な磁石のように、価格が上昇しようとする動きを何度も押し戻している。
(ここだ…!)
価格が再度20SMAにタッチし、上ヒゲをつけて反落しようとする瞬間。俺は、これまでの修行で培った全ての集中力を込めて、売りエントリーのボタンを押した。損切りは、20SMAを明確に上抜けたポイント。
直後、Solitary Roseも同じく売りでエントリーしたのが、彼女のトレード履歴から確認できた。だが、俺の方がほんのわずかに早く、そしてよりMAに近い位置でエントリーできていた。
価格は、俺たちの思惑通りに急落を始めた。俺は、師匠の教え通り、20SMAが明確に水平になるか、あるいはローソク足が力強く反転するサインが出るまで、じっとポジションを保有し続けた。
一方、Solitary Roseは、ある一定のテクニカルポイントに達したところで、機械的に利益を確定させていた。俺は、彼女よりも長くポジションを持ち続けた結果、より大きな値幅を獲得することに成功したのだ!
一瞬、Solitary Roseのアバターである深紅の薔薇が、ピクリと揺れたように見えた。気のせいかもしれない。だが、俺は確かに、MA一本の戦い方で、あの孤高の天才に一矢報いることができた。
しかし、戦いはそれで終わりではなかった。Solitary Roseは、その小さな敗北(と彼女が認識したかは分からないが)にも一切動じることなく、その後も淡々と、しかし驚異的な精度で利益を積み重ねていく。彼女の総合的な分析力、資金管理能力、そして何よりも精神的な安定感は、今の俺が到底敵うものではなかった。
ミニイベント終了のホイッスルが鳴った時、結果はやはりSolitary Roseの圧勝だった。俺の収益率は、彼女の半分にも届かなかった。
悔しさに唇を噛む。だが、不思議と、以前のような絶望感はなかった。むしろ、胸の内には、確かな手応えと、これから自分が何をすべきかという明確な道筋が見えていた。
(彼女のシステムは、確かに凄い。あらゆる状況に対応できるように、無数の武器を持っている。でも…どんな複雑なシステムも、市場の大きな流れ、大衆心理のうねりには逆らえないはずだ。師匠の言うMA一本は、その大きな流れを、誰よりも雄弁に、そしてシンプルに語ってくれる。俺はまだ、MAの言葉を、その本当の意味を、半分も理解できていなかったんだ…!)
敗北の中で掴んだ、大きな気づき。それは、俺にとって何物にも代えがたい財産となった。
バトル終了後、ランキングを確認しようとした俺の元に、Solitary Roseから一言だけのプライベートチャットが届いた。
「…少しはマシになったんじゃない? でも、まだ私に追いつくには100年早いけど」
相変わらずトゲのある言葉だ。だが、その響きには、以前のような完全な軽蔑ではなく、ほんのわずかな、本当にごくわずかな何かが含まれているような気がした。それは、ライバルとして認めたというには程遠いものかもしれないが、少なくとも「視界に入った」くらいの変化はあったのかもしれない。
俺は、そのメッセージにどう返信しようか少しだけ迷った後、ただ一言だけ打ち返した。
「見ててください。必ず追いついてみせますから」
送信ボタンを押した瞬間、俺の心は、次なる戦いと成長への決意で満たされていた。高柳師匠にこの経験を報告し、そして、MAのさらなる奥義を学ぶのだ。
孤高の薔薇の背中は、まだ遥か遠い。だが、俺の道は、確かに彼女へと続いている。そう確信できた。
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