2. 解放
鳥も、虫も、けたたましい車の音も、遠くから聴こえる酔っ払いの声も、いつもなら嫌ほど聞こえるのに、今だけは何ひとつ聞こえない。
まるで世界が、こぽこぽと泡を吐いて、深い海の底に沈んだようだった。
空気はどこまでも鈍く、身体の輪郭が曖昧になっていく。息を吸っても、肺の奥まで届かない。音も手触りも、温度も、耳の中に水が入ったときの鼓膜ように、どう足掻いても届かないところにある気がした。
「ごめんなさい。年はいくつ?」
「……二十歳です」
「じゃあ、ゆーくんだね」
「……なんでくん付け?」
「……もし先輩だったらさ、『さん』付けしないといけないでしょ?それに同級生なら、別にあだ名くらいするし」
あっさりと彼女はそう言った。
あともう少しで本当に死ぬ、いや本当はもう死んでいるのに、なぜ呑気にこんな会話をしているのだろう。
「まあいいか。友だちからもそう呼ばれてるし」
「私のことは、すずか、すずすずか、チリンチリンって呼んでいいよ。なんせ、名前の中にすずが二個もついているからね」
だけど、少しだけ、心がほっとする。
それを言葉にするなら、温かさというよりも。生と死の狭間に残された微かな熱が、冷めきらずに漂っているだけのようだった。
ここは現実のようで、現実ではないから。
僕たちは今、死んだ瞬間の僅かな「余白」に囚われている。世界が二つに分岐した、その裂け目で。
僕は彼女が誰かまだ分からない。
恐らく大学生だとは思うが、たまたま大学で死んだだけで、全く違う経歴を持っているかもしれない。
だけど、少し前に、どこかで会った気がするのは気のせいだろうか。
「……ねえ、聴いてもいい?」
すずすずは足を止めて、振り返る。
瞳は、暗闇の中で淡く濡れていた。
「なんで、ここは、私たち二人しかいないの?」
「……それは、多分、僕たちが死んだからだよ。お互いに、違う世界で」
「これって、俗に言う、『オルタネイト現象』っていうの?」
「そうかもね。違う世界。同じ場所。同じ時刻。同じで、死んだもの同士が、死ぬ間際に意思疎通できる」
「……うん。だから、僕たちがここにいるのは、別々の世界で、二人して同じ場所で死んだからじゃないか?」
「……つまり、ゆーくんはここの学生だったってわけか」
「……そうだよ」
「……おー、すごいね。私は、ここ、辞めちゃったけど」
気まずい。
「……ああ、そうなんだ」
「……嫌なところだったよ。課題は多いし難しいし留年率高いし、夜通し勉強しても単位は取れなかったし」
「……まあ、それだけならよかったよ。というか、そんな忙しない日々のが良かった」
「それが理由じゃないのよ」
「………そうなんだ」
その言葉の冷たさに、心臓がひとつ、鈍く跳ねた気がした。
✧
「……それにしても、静かだねー。静かすぎるくらいだよ」
すずすずはうっすらと笑って、そして、目を伏せた。
「ここは、私が死んだ場所。そして……私の世界では、あなたが、まだ生きている場所でもある」
「デリカシーないって、思われるけどさ。何で、すずすずさんは、亡くなったの?」
「……アハハッ」
「……どうしたの?」
「……いや、なんかおもしろくて」
「……何が?」
「……いやだって、男女ペアでの会話で、『死因なんですか?』って、なんか不思議じゃない」
「……まあ、変わっては、いるけど」
「ボーイミーツガールなら、もう少しドラマチックに行きたいところなんだけど」
「……ごめんなさい」
「……ああ、いや、謝るほどじゃないから。そんな真に受けないで」
少しの沈黙の後、彼女は小さく溜息をしたあと、口を開いた。
「デリカシーないって言おうとしたけど、さ。もう、いいかな。どうせ死人同士だしね」
諦観混じりにも関わらず、あっけらかんとした口調。でも、痛みさえ感じる、幸の薄い笑みを浮かべていた。
「私ね、自殺したの。天井の金具に紐通して、その中に首入れちゃった」
その言葉が落ちた瞬間、空気が変わった。
重い水の中で呼吸をしているように、世界がゆっくりと鈍化する。
血が床を染めていくのと同じように、ゆっくりと絶望が浸透していく感覚に近い鼓動の揺れだった。
彼女は、ぽつりぽつりと語り出した。
「ねえ、ゆーくんはさ、信じる?『救われる』って言葉」
「……信じない、と思う。それは、人によるけど」
「……やっぱり。普通はそうなるよね」
「……いや別に、信仰の自由とかあるし。僕も神社とか行くし、墓参りもするし、実家には仏壇もあるし」
「……ごめん。そういうことじゃない」
「……」
「……信じてたの」
彼女は繰り返す。
「……信じてたの、馬鹿だから」
「うちの家が入ってた『会』を。『信じれば、救われる』って言葉を」
「でもね、救いって、いつも金額で測られた。母はね、『神さまは愛だ』って言ってた。でも、その『愛』って、金額で変わるんだよ。三万円で心が清められる。十万円で不幸が祓える。百万円で未来が変わる――そんな具合に『もっとお布施を』『もっと信心を』って、そのたびに、私たちの生活は削られていった。母は泣きながら『これで罪が軽くなる』って言ってた。ふふっ、馬鹿だよね。そんな罪、誰が決めたのかも知らないのに」
彼女は淡々と話した。その奥で、何かが静かに壊れきった後の瞳が見えた。
「パパが亡くなって三ヶ月くらいだったときだったかな?私が中学生のころ、福音セットっていうのが家に届いてね、それが始まり。ろうそくと経典と、お清め用の壺。合わせて三十八万円。支払いは三回払いでいいですよって。母はこれで家が救われるって泣きながら笑ってた。そして私を抱きしめた。母親の笑顔を見て私も笑ったけど、泣けなかった」
「霊道と大きな経典が家に来たとき、もう奨学金だけじゃ学費、賄えないって言われてさ。その後に、『学校より大事なものは祈りよ』って、ママが笑った。でも、私にとっては、あそこが唯一現実を現実だと引き留めてくれる糸だった。実験室で、夜通しデータをとって疲弊しても、ずっと孤独な時間が続いても、教授は講義で、人間の思考の脳波パターンを数値化したいって言ってた。人の心を、数で表せると思ってたの。私も参加した。でも、モニターに映る波形はただの線だった。どんなに信じても、祈っても、泣いても、線の形は変わらない。それを見たとき、ああ、神さまって死んでるんだな、って思った」
静かに、彼女は目を伏せた。
唇の端には、ほとんど形になっていない、うっすりとした笑みが浮かんでいる。
「最後にね、教授の机の上に置いてきたの。 救いの定義ってタイトルのレポート。ページの真ん中に、たった一行だけ。『救いとは、痛みの停止である』って」
彼女は息を吐く。
「多分、落単しちゃった」
静かな呼吸の音が、夜に溶けた。
「そうして、私はこの研究棟で死んだ。屋上じゃなくて、階段の踊り場。首を絞める痛みよりも、空気が遠のく感覚のほうが、ずっと優しかった。ああ、やっと止まるんだ、って思った。息をするたびに削れていった『生きる』っていう苦痛が、ようやく、止まるんだ、って思った」
その語り口は、淡々としていた。
まるで、自分の死を他人のもののように語っているようだった。
「その直前に、グーグル先生に聴いたの。『人が死ぬときに見えるもの』って。検索結果は、走馬灯や一筋の光、亡くなった親族がお迎えが見えるそうだったけれど、私は何も見えなかった。ただ、静かだった。静けさの奥に、何もいらないっていう安らぎがあった。『救われる』って、きっとそういうことなんだと思う。痛みの停止。苦しみからの解放。私にとって死というのは、それ以上でも、それ以下でもない」
彼女の言葉が、夜の底に沈んでいく。
誰かが描いた「救い」の形が、人を殺す。
そのときの思いは、痛みを信仰しているかのように。
「……」
彼女の声は淡々としていた。
語っているのは、痛みではなく、痛みが凍りついた後の人間の骨灰だということを一瞬忘れそうになるくらいに残酷な話を、こんなにもあっけなく言えるのか、と思ってしまったほどだ。
「人はね、死ぬほど苦しいとき、祈るよりも、黙るんだよ。『お願い』なんてもう言えなくなる。言葉が空っぽになるの。だから、私は静かに、死ぬ準備をした。遺書も書かなかった。何も感じないまま、天井に紐を通して、その中に首を入れた」
彼女の声は、震えなんて一つもしなかった。
ただ、ひとつの静かな報告のように。
「――ねえ、怖くなかったの?」
僕がそう訊くと、すずすずは、少しだけ首を傾げて笑った。
まるで、子どもに「大丈夫だよ」と言い聞かせるみたいな、静かな笑みだった。
「ちょっとは、怖かったよ。でもね、最後の瞬間、ふっと、安心したの」
「安心?」
「うん。全部が、ようやく終わるんだって。もう誰にも、何も期待しないし、期待されないって。宗教とか、愛とか、そういう人の形をした救いに、もう縛られなくていいって思ったの」
その声は、ひどく穏やかだった。
静かな水底で光が溶けていくように、ゆっくりと、柔らかく。けれど、その柔らかさの裏には、血を流しきった後に生まれる諦念みたいなものがあった。
僕は何も言えなかった。
彼女が「自殺」を語るその口調があまりにも優しくて、恐ろしく思えた。
まるで、死を語ることが、祈りそのもののようだったから。
彼女の瞳には、もはや痛みも、涙もない。ただ、一つの世界を終わらせた者だけが持つ、静かな透徹さがあったのだ。
「生きるってね、搾取されることだよ」
彼女は続けた。
「学校も、家も、宗教も、優しさも、社会も、みんな同じ。『あなたのため』って言葉で、確実に人を縛って、絞って、使って、壊していく。あたしはそれを、もう終わりにしたかったの」
その言葉が胸に刺さった。
きっと彼女の言う宗教は、僕らの知っている宗教じゃない。定義通りの信仰のことじゃない。
人が生きるために作ったはずの秩序が、いつの間にか誰かを締め上げる構造――そのことを、彼女は言っていた。
僕は思った。
彼女の死は、逃避なんかじゃない。
世界の暴力に対する、最後の拒絶だった。
その拒絶の果てに、彼女は救いを見たのだ。
会話の後、僕たちは、港湾沿いに出た。
海は、残酷なくらい深くて、不気味なくらい静かだった。静かさの中に混じる波の音さえ、どこか遠い場所の出来事みたいに聞こえる。
闇に沈んだ水面は、夜そのものの血管のように脈打ち、時折、鈍く光を返している。
潮の匂いが、鉄と涙を混ぜたようで、息を吸うたびに胸の奥がきしりと軋んだ。
この黒い海に流れている液体は何なのだろうか。それは本当に海水なのだろうか?
かつて世界だったもの、或いはその残響のようなものだったら、どうしようか。
取り残されていても、僕たちは逃げれない。
その流れの上に、今、僕たちは立っているから。
「……ありがとね、私の相談のってくれて」
「……相談というか、僕はただ聞いていただけだよ」
「……でも相談なんて、そんなもんでしょ。誰かに話を持ちかけて、最適解を求めたり、為になる話を聞きたいわけじゃない。自分の状況とか過去とか過ちとか、とりあえず言葉にして吐き出してしまいたいだけ」
続けて、すずすずは言う。
「ねえ、ゆーくん。相談に乗ってあげる。あなたの死は、どんな音だった?」
すずすずの問いに、僕は少し考えて、答えた。
「音は、なかった。最初に崩れたのは壁で、その次に、柱で、その次に身体だった。気づいたら、もう世界が沈んでいた。音のない、冷たい水槽の底で」
彼女は目を閉じて、小さく頷いた。
「……地震かぁ」
それ以上何も聞いてこなかったのは、彼女なりの優しさなのかなと思った。
「じゃあ、似てるね。わたしたち、どっちも――静かに死んだんだ」
違う。
違うのだ。
彼女の死は、自ら選び取った終わりだった。
僕の死は、選ぶことすら許されなかった終わりだった。
地震の崩落音も、天井の軋む悲鳴も、もう思い出せない。空を仰ぐと、そこにひび割れのような裂け目があった。深い藍の帳の中に、一筋の光が、静かに、慎ましく、縫い目のように走っている。その亀裂は、まるで世界がゆっくりと呼吸しているかのように淡く明滅し、音もなく、ゆっくりと広がっていく。
そこから零れ落ちてくる光は、星なのか、それとも――記憶の残滓なのか。
僕には、それがまるで砕けた硝子の破片に見えた。
あの夜、身体に幾千もの痛みを刻みつけた、あの破片たち。
指先でなぞれば、また同じ傷がつくような気がしたから、僕はやけに美しいこの夜空に、手を伸ばせなかった。
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