第5話 紫将の馬
翌日。広大なグラウンドの一角で、ラボールを含めた新騎兵たちは困惑していた。
彼らは古株のグレン兵に取り囲まれ、熱烈な歓迎を受けていた。
ラボールの肩にも、なれなれしく手が置かれた。ラボールは思わずその手を払いのけた。
採石場での経験——不意の暴力のトラウマから、ずいぶん失礼な態度をとってしまう。
触るな、とラボールは叫びたくなる。未だに拳を恐れ、心臓に冷たい汗をかくから。
邪険にされた壮年の兵士は、思いがけずにやりとした。
「お前、若いのに良い体してんじゃねェか、ん?」
「え?」
そのいたずらっぽい笑みは、あまりにもグレンと似ていた。
「だが、俺の方がマッチョだ!」
「……そうですね」
ラボールは軽く口の端を持ち上げた。周りの新兵も、同じように兵士に絡まれ、肩の力を抜いて笑っている。
彼らなりに、緊張をほぐそうとしてくれたんだろう。ラボールはもうすでに、居心地の良さを感じていた。
突然、すごい勢いでグラウンドを横断して、グレンがやってきた。獰猛そうな黒い馬に乗っている。
「これより乗馬訓練を行う。分かってると思うが、馬に乗れないと騎兵とは呼べんからな!」
彼の軽口に笑いが起きた。さっと目を走らせた紫将と目が合った。
「ラボール! 前に出ろ」
兵士が、近くに点在する杭につないでいた馬の手綱を引いてきた。
「こいつに乗ってみろ」
ラボールは手綱を受け取った。一挙手一投足を全員に見られ、落ち着かない。
「馬に乗る」
言葉にすれば簡単なそのことについて、詳しいことは何も分からないことに、ラボールは気づいた。
ぽくぽくと蹄を踏む馬は、一見おとなしそうに見えた。しかし、丸くて黒いかしこそうな瞳が、拒絶するように鋭く光っている——
ラボールは頭を軽く振って嫌な想像を追い払い、意を決して馬の背に飛びついた。
待ってましたとばかりに、馬の硬い筋肉が盛り上がり、躍動した。
気付けばラボールは、地面に墜落していた。口の中がグラウンドの茶色の土でいっぱいになった。
馬が遠くに逃げ去ったので、兵士たちが急いで捕まえに行った。
爆笑が巻き起こり、他の場所で鍛錬していた歩兵が怪訝そうに振り向いた。ラボールはひどく赤面した。
「誰でも最初はこんなもんだ」
グレンはなんでもないことのように言った。
「よし、では各自乗馬開始!」
グレンの号令で、新兵たちは我先にと馬に乗り始めた。誰もが「ラボールよりはうまくやれるだろう」と思っていたし、実際その通りだった。
ダイルは雑に舗装された山道を全力で走っていた。
レジーナは新歩兵に、延々と山道を往復するという、刑罰じみた鍛錬を課した。
「歩兵は身体づくりが第一」とする彼女の言葉には一理あるとダイルも思った。
しかし中には不満を持った新兵もいる。
ダイルが山道を登り切り、一番乗りでグラウンドに帰ってきたとき、ぶすっとした表情のアウロラがレジーナに詰問されていた。
「いい加減ワガママはやめたらどうだ?」
レジーナがそう言うと、周りの歩兵たちも同調して「そうだそうだ!」と騒ぎ立てた。しかしレジーナにぎろりと睨まれると、彼らは恍惚の表情を浮かべて押し黙った。
「あたしは——指図されるのが嫌いなの」
アウロラは髪をいじりつつ、はっきりと言った。
「ならば仕方ない」
レジーナが拳を振りかぶったので、ダイルは慌てて割って入る。
「おい、殴るこたねーだろ」
「お前も私に歯向かうか?」
レジーナが肉食獣のような怒気を発した。
ダイルはひるまず言う。
「殴るなら俺を殴れ」
すると——
「ごべっ!」
右ストレートが飛んできた。
ダイルは錐揉み状態で宙を舞った。
歩兵たちが色めきたつ。
「女王様! 我々にも愛のムチをっ……!」
「黙れ」
冷たく言うと、レジーナは腕を組み、兵舎の出口に目を向けた。
走り終えた新兵が続々と帰還してくる。
「坊主。もう一周だ。そのはねっかえりは、お前が責任をもって走らせてこい」
レジーナから離れ、腫れあがった左頬を押さえながらダイルが言った。
「これで借りは返したぜ」
「助けてなんて——頼んでない」
「そうだな。俺が勝手にやったことだ。礼はいらねーよ」
兵舎を出て、いざ走りだそうとしたとき、アウロラが両肘をダイルの肩にもたれかけた。
「つかれた。おぶって。」
甘い花のような匂いがダイルの鼻をついた。
「はぁ? なんで俺がンなこと……」
ダイルは動揺を悟られないようにしかめっ面で言った。
構わずアウロラが、後ろから彼の首に手をまわした。
「おい!」
「ぐーぐー」
ものの数秒で、アウロラは寝息をたてはじめた。腕にはすごい力が込められ、絶対に地面に降りないという意志を感じさせる。
仕方なくダイルは、アウロラを背負ったまま進みだすが、バランスが崩れて上手く走れない。
ダイルは一瞬捨てて行こうかと思ったが、後でレジーナに小言を言われるのもシャクだったのでぐっとこらえた。
「チッ! お前、覚えてやがれ……」
心臓の音がやけにうるさいのは、疲れているせいだと、彼は坂を走りながら自分に言い聞かせ続けた。
「練習しないだべか?」
ダッチャは、兵舎の裏にある空き地で、的あてをする他の弓兵から離れて、小刀で黙々と小枝を削っている、大柄で筋肉質な兵士に話しかけた。
しかし、兵士はそれを無視して作業を続けた。
ダッチャはむっとしたが、何となく気になり、つい見てしまう。
しばらくして、兵士は削った枝を陽にかざし、かすかにうなずいた。
そして不意に立ち上がり、兵舎から、美しく反りかえった長弓をとってきた。
彼はその弓に、今作った木片をのりでくっつけた。その瞬間、弓は表情をがらりと変えた。
元々ただしく見えたものが、一瞬にして完全なものに生まれ変わる——その過程を目にして、ダッチャは震えた。
「おお——。ぴったりだべ……」
思わずつぶやくと、兵士が初めて声を出した。
「射ってみるか?」
「……んだ!」
大きくうなずき、差し出された弓を、ダッチャは慎重に受け取った。手に取ると、それは身体の一部のように、彼の指になじんだ。
人の多い射撃場に移動し、故郷でよくやっていたように、ダッチャはごく自然な動作で弓を放った。
一ダースの矢が、六十Ⅿ離れた木の的を揺らした。後ろで見ていた筋肉質な兵士が、わずかに眉をあげた。
十二の矢は✙の形で的に刺さっている。
「どうだべ?」
「悪くない。」
そう言って、兵士はダッチャから弓を受け取り、二ダースの矢を続けざまに放った。
腕が早回しのように機敏に動き、ほとんど連続して矢が飛んで行くように見える。
的に⁂の模様が描かれた。
ダッチャが目を輝かせて拍手し、兵士もまんざらでもなさそうに頷いた。
二人は交互に矢を射った。
いつしか彼らの背後に人だかりができていた。一射ごとに、仲間たちから、唸るような感嘆の声があがった。
遠くで見ていたグラスが、満足げにつぶやいた。
「有能な射手は軍の財産です」
「よう。お疲れさん」
私室での書類仕事を終えたグレンは、グラウンドに出て、疲れた顔の騎兵に声をかけた。
「隊長」
「まだやってるのか」
夕焼けに染まるグラウンドには、一頭の馬に引きずられる少年だけが残っていた。
「あいつのせいです」
兵士は頭痛をこらえるように目頭を押さえた。
「飯も食わず、もう十時間はぶっ通しですぜ? 他の新兵は皆、簡単に乗れたってのに……」
「俺が監督を引き継ごう。お前は戻って休め」
グレンは苦笑して、兵士の甲冑をこつんと叩いた。
「そいつはありがてぇ」
伸びをしながら離れてゆく兵士を見送り、グレンはラボールをからかう。
「結局、乗れなかったのはお前だけか」
「次はいける」
言うなりラボールは手綱をぐいと引き、馬の背に身を躍らせた。
馬が後ろ足を蹴り上げた。
硬い蹄が直撃する。
「ぐっ!」
それでもラボールは手綱を離さない。
そのためグラウンドには、散々引きずられた人型の轍がそこかしこにあった。
「もう止めておけ。馬が限界だ」
「なら、他の馬を」
頑なに、ラボールは言った。
彼は常にこうやってきたのだ。石集めにおいても、槍においてもそうだった。
とにかくやる。不器用に。初めは笑われる。
そしてある日、突然〝できている〟ことを理解する。それには時間がかかるが、彼は止まらない。
「お主は槍の才能が無い」
なぜか誇らしげに、ジオが言ったのを覚えている。
「だが諦めない。これは凄いことじゃ。ラボール。お主の努力には、どんな才能も敵わんよ」
グレンは肩をすくめた。彼もまた、少年の取り組み方を知っていた。
「……分かったよ。ついて来な」
グレンの背を追って馬を引き、ラボールは屋根付きで新式の、広々とした木造厩舎に入った。
左右に均等にならんだ馬小屋からは、新鮮な草と健康的な馬糞の匂いがした。
ラボールの引いてきた馬を休ませ、グレンは新しい馬を引っ張り出した。それは黒く、大きな馬だった。
グレンの馬だ。
「俺は寝る。明日の朝までに乗れなければ兵科を移れ」
最後にそう言い残し、紫将は去った。
ラボールは獰猛そうな黒馬と睨み合い、飛び掛かった。
翌朝。
厩舎に向かったグレンは、こらえきれずに大笑した。
「くっ……はっはっはっは!」
汗に濡れた黒馬。その背に、小柄な少年が突っ伏して寝ている。
黒馬——デスペラードは、グレン以外に懐くことはなかった。デスべラードは領主に賜った最高の名馬であり、気に入らなければ熊さえ蹴り殺す鬼の馬だ。
——それが、認めたというのか、こんな小さな子供を! グレンは笑うが、実はさして驚いていなかった。
彼自身も、かつてラボールを認めていたからだ。
あのぼろぼろの掌を見たとき。彼は確信したのだ。
——強くなるとは、自らを追い込むということだ。
誰に教わらずとも、何の目標もなくとも、ラボールはそれが出来ていた。
「小僧め。それは紫将の馬だぞ」
グレンはひとしきり笑った後、満足げに眠る少年をかついで兵舎に戻った。
「ここで寝るな」
レジーナはゴツンとアウロラの頭を叩く。
「あいて」
誰もいないと思って来た屋上には、生意気な少女が丸まっていた。
「そもそもどうやってここに入り込んだ? 階段の扉には鍵がかかっていたはず」
「壁をよじ登った」
アウロラは当然とばかりに言った。
「ふ……」
思わず、レジーナは笑みをこぼした。
別にこいつが憎いというわけではない、と彼女は思う。規律に反する存在が厄介というだけだ。
持ってきた袋から酒と菓子を出し、あぐらをかいて座る。
眼下のグラウンドには誰もいない。髪が風になびいた。沈みかけた陽に、レジーナは目を細めた。
「あの坊主、ダイルとかいったか。アレはお前の恋人か?」
寝ぼけまなこをこすっていたアウロラが、ビクッとしてレジーナを睨む。
「は? ……気色悪いこと、言わないで」
「ずいぶんと仲良さげに見えたが?」
「うるさい——」
アウロラは身をよじって顔をそらした。
レジーナは爽快な気分になり、酒をあおる。
この機に、小娘と親睦を深めておくのも悪くないかもしれない。うまくいけば、従順になる可能性もある。
——ガールズトークといこうじゃないか。
「私はグラスが好きだ」
さすがに興味をひかれたのか、アウロラがちらりとレジーナを見る。
「副官の人? 隊長ではなく?」
「私は存外面食いでね」
「あたしは——隊長の方がマシに見えるけど」
「ああ、成程。お前はああいう〝がさつ〟なのが好みだものな?」
またしてもからかわれ、アウロラの唇がとがる。
「あなたと話すと……イラつく。」
「私は楽しいぞ?」
レジーナが本心からそう言うと、アウロラは突然立ち上がり、壁をつたって下に降りようとする。
レジーナは声を張って言う。
「明日の夜もここに来い。鍵は開けておく。女同士、男には話せぬ悩みを語り合おうではないか」
「二度と来ない」
「そう言うな。美味い菓子を持って来てやる」
下を覗き込んでレジーナがそう言うと、壁を降りるのがぴたりと止まった。
「……肉がいい。——お菓子は嫌い。特に甘くて可愛いのが。」
どこか苦しそうに言うと、アウロラは身体を振り、窓から兵舎に飛び込んでいった。
「ふっ。まるで野良猫のようだな」
この日から、レジーナは酒が美味くなったように感じた。
小娘との会話が良いツマミになったのだろう、とレジーナは思った。
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