動乱
エレナ=リガメントは、すっかり夢の世界へと旅立った二人の子供たちの寝顔を見つめながら、ベッドに身を預けていた。
頬にかかる長い黒髪を耳に掛け直し、微笑む。
「ふふ、起きてる時は喧嘩ばかりのくせに……」
ぴったり寄り添って眠る兄妹の頬を引っ張ったり、つついたり、小さな手で挟んでみたり。
幼い子ども特有の、柔らかく弾力のある感触を、そっと確かめる。
黒髪の息子、クラヴィス。父譲りの明るい髪の娘、ルミナ。
「今頃、アーシェはレオンと昔話に花を咲かせてる頃かしら」
後方支援や治癒魔術に特化した
……というのは表向きで、実際には彼の剣撃隊は警戒任務や訓練で休む暇もない。
せめて今夜だけでも、夜風にあたりながら、昔馴染みのレオンと語らえていればいい。
そんな姿を思い浮かべるだけで、胸がふわりとあたたかくなる。
夫はよく言っていた。
「クラヴィスにも魔力があれば、一緒に戦えるかもしれない」
「だから俺は絶対に長生きするんだ」
子どものようにはしゃぎながら、未来を夢見るその顔が、今も目に焼きついている。
……私も、かつては同じ夢を見ていた。
命を燃やし、人類を守る魔法戦士団の一員として。
減り続ける人口、消耗を前提とした戦力。
その中で少しでも長く、世界を支え続けたいと――
だけど。
この子たちが生まれて、考えが変わった。
魔力の才能は、ある程度の確率で遺伝する。
希少な魔力資質を持つ子どもは、六歳で受ける検査で判明すれば、そのまま訓練所へと送られる。
親が会えるのは、週に一度の休息日だけ。
魔法なんて使えない方がいい――
命を燃やす、人類の守護者などではなく、例え鉄でできた壁の中、仮初の自由でも。
鉄籠に入れられた鳥の様に自由に羽ばたけなくてもいい。
それでも、長く、穏やかに、生きていてほしい。
この世界に、どんなに理不尽や絶望があろうと、きっと小さな希望は灯せるはずだと、私は信じたい。
戦士の命は短い。
いつまでこの子たちの顔を見ていられるかなんて、誰にもわからない。
明日、自分が生きている保証すら、ないのだから。
この手の届く場所にある、ささやかな未来を守りたかった。
すうすうと寝息をたてる小さな胸。
そっと額に手を当てると、ぬくもりがじんわりと伝わってくる。
――私は、この子たちの灯火でありたい。
どんなに暗い夜でも、迷わぬように。
たとえそれが、燃え尽きる火花のような、儚い願いだったとしても―――
いつの間にか眠っていた私は、遠くに聞こえる警鐘の音で飛び起きた。
鼓動が耳に響き、夢の残り香が一瞬で吹き飛ぶ。
ベッド脇のランタンに火を灯しながら、そっと立ち上がる。
遠くから、くぐもった鐘の音が、夜気を震わせるように響いてくる。
「……九連打に、五連の重打。西門に敵多数、ね」
その組み合わせの意味を、私は知っている。
あの鐘の向こうにいるのは、レオン——そして、アーシェ。
最前線で戦っているだろう夫を想い、胸がざわつく。嫌な予感が、背骨をゆっくりと這い上がってくるのを感じながら、私は静かに装備を整える。
まだ非常動員の号令は届いていない。
だが、“それが来る前に動けるようにしておく”のが、戦士のあるべき姿だ。
「クラヴィス、ルミナ。起きて」
声をかけると、二人は眠そうに目をこすりながら身を起こす。
年の近い兄妹は、まるで同じ夢を見ていたかのように、まだ夢の世界をふらふらと彷徨っているような顔だった。
「ごめんね。でも、ちょっと準備だけしておこうか。お着替えして、靴も履けるようにしてね」
小さな頭を撫でる手に、わずかに罪悪感が走る。
私は不安を感じさせないよう、笑顔を浮かべながら、そっと窓の外へ視線を向ける。
閉じられた街の天井——巨大な鋼鉄。
飛行型魔物などから街を守る盾として、重厚な鋼鉄が幾重にも組まれているそれは、ブレード状の羽となっている回転機構を備えている。
太陽が出ている間は回転機構であるブレード状の羽が回り、一時の光を取り込む為だ。
しかし、今は闇も深まる深夜。羽は閉じられているが―――
そこから微かに、甲高い金属の悲鳴が響いた。
「ッ……なに……?」
見上げた天井装置のブレードが、ひしゃげていた。
鋼鉄の巨大な翼のようなそれが、じゅわじゅわと音を立て、腐っていくように黒ずんでいた。
何かが、上空から腐食性の液体を撒き散らしているかのように…
ぬらり、とした黒い影が、ひしゃげたブレードの陰から動くのが見えた。天井の鋼板が、まるで熱湯に触れた紙のように膨れ、砕け、歪み、落ちる。
「——クラヴィス! ルミナ!!」
爆音が天井から降り注ぎ、重力を失ったように鋼鉄のブレードが回転軸ごと崩れ始める。
「伏せてッッ!」
私はとっさにクラヴィスとルミナを庇おうと窓際から走る。ベッドへと覆いかぶさろうとしたその時__
鋭い閃光と轟音。
家の天井が裂け、瓦礫が雨のように家の中へ降り注いだ。
巨大な鉄骨が壁を破壊し、家具を砕き、部屋が一瞬で阿鼻叫喚の瓦礫へと変わる。
——白く弾けた視界の中で、私は意識を手放した。
「……っ……」
鼻を突く血と焦げた鉄の匂い。
耳鳴りが続く中で、私はうっすらと目を開けた。
全身が重く、視界の隅に黒い瓦礫が見える。身体の上には家の梁と思しき木片や金属片が覆いかぶさり、呼吸すら苦しかった。
「……クラヴィス……ルミナ……!」
耳に届いた微かな泣き声が、全ての痛みを掻き消した。
気力を振り絞って、私は瓦礫を押しのける。痛みと吐き気が波のように押し寄せてくるたびに、私は歯を食いしばって耐えた。
這うようにして、崩れた部屋の先へと進む。
ようやく瓦礫を退かし、外に出る。
まだ落ちきっていない街を包む外郭の天井の裂け目から月明かりが差し込み、そこに……二人の姿が見えた。
「……!」
クラヴィスが妹を庇うように立ちはだかり、その周囲を、三体の魔物が取り囲んでいた。
魔物たちは下等な鳥獣型。腐った羽根の翼をはためかせ、ぬらついた眼が、月明かりにギラついていた。
群れて数で襲うだけの、下等な魔物だ。
__だが、今の子供たちにとっては、死を意味する存在。
「……やめなさい、化け物が……!」
私は立ち上がり、負傷した足を引きずりながら、魔物たちの方へと歩みを進める。
動くたびに全身が悲鳴を上げた。
しかし、泣く子供たちの姿を見ると、痛みなど些事でしかない。
私は足を止め、拳を強く握る。
拳の周りを、風がうなりを上げるように渦巻いていく。
「第六灯階…」
「
風属性の身体強化魔術。
拳にまとわりつく風が、甲高い音を立てる。
灰搬隊員である私は、本来なら治癒と支援を任とする者だ。
だが、戦士たちは例外なく武器を喪失した時や、灰搬隊員単独で戦う場合の局地戦訓練を義務付けられている。
一体目が咆哮とともに飛びかかってくる。
「……ッ!」
私は渾身の力で拳を振り抜いた。
風を纏った拳が魔物の顎に命中する。
風の刃が魔物の骨ごと切り裂く。
だが倒しきれない。動きを止めるには十分だったが、殺しきるには威力が足りなかった。
続けざまに、二体目が回り込んでくる。
「ぐっ……!」
回避はできなかった。咄嗟に腕を上げて防いだが、爪が肩を裂く。
悲鳴を上げながらも、私は倒れない。
「守る者がいる母は……強いのよッ!」
裂けた肩で殴り返す。
音を立てて魔物が吹き飛び、崩れた家の壁に叩きつけられる。
初撃を入れた手負いの魔物にすかさず鋭く切り裂くような手刀を入れ、首を跳ねる。
だが、そこで私の体力も限界だった。
最後の一体が、クラヴィスたちに向かっていく。
「ダメッ……!」
身体がついてこない。血で滲む視界に世界がゆっくりと見える。
もう、間に合わない…
クラヴィスが拒むように絶叫と共に両手を突き出す。
その時___
雷鳴が、大地に降り注いだ。
バチバチと空気が裂ける音。 瞬間、クラヴィスの小さな身体を中心に、爆ぜるように光が迸った。
ただの身体強化ではない。これは、雷そのものが顕現したかのような――
「こ、これは…第九灯階……!? 身体強化魔術……
空気中に漂っていた霧が、一瞬で蒸発する。 風が逆巻き、大地が鳴動し、街の金属製の外装がバチバチと帯電する音が周囲に広がる。
クラヴィスの肉体は、小さな影のままそこに立っていた。 だがその周囲では、奔雷が鎖のように空間を支配し、すべてを焼き尽くさんとしている。
声を上げる間もなく、魔物たちは存在ごと蒸散するように跡形もなく消え去る。
その
第九灯階魔法。その領域の身体強化魔術はもはや自然現象そのものの顕現。
単なる自己の身体強化に留まらず、自身の身に元素を纏わせ、辺りも巻き込む。
第九灯階ほどの高灯階は使用する者などいない。
使わないのではなく使えないのだ。
それを制御する魔法制御技術の精密さはもちろん、使用した者はあまりの魂の損耗に耐えきれず、すぐさま自壊する。
しかし、知識だけは習っている。
おおよそ人の身では使えない神域の魔法として。
そんなものを幼いクラヴィスが…
魔法。
それは、本来なら訓練を積み、魔法制御を学び、魂の扱い方を理解していなければ、到底行使する事など叶わない。
それを、一切の学びなく、しかも神域の高灯階を発動した。
その代償は、すぐに現れる。
雷光が収まった後、そこには――
倒れ伏すクラヴィスと、すぐ後ろで気を失っているルミナの姿があった。
私は息を呑む間もなく、まっすぐ二人のもとへ痛む体を引き摺り、駆け寄った。
静かに横たわるルミナの姿には、外傷はなかった。
胸が上下している――それだけが、今この場に確かな安堵をもたらしていた。
おそらく、先ほどの雷光と恐怖による失神だ。
だが一方でクラヴィスは__
「クラヴィス……っ!」
私は彼の身体を抱き起こした。
その肌は灰色に染まり、まるで干上がった田畑のように、ひび割れていた。
血の代わりに、淡い光がゆっくりと滲み出している。
それは……灰化徴候、第三段階。
魂の燃焼が始まっている証だった。
「かあ、さん……守ったよ……ルミナを……」
微かに動く唇が、そう呟いた。
そしてそのまま、彼の身体から、静かに灰が舞い始める。
「……いや……やだ……やだ、やだ……!」
私は必死に腕を伸ばし、崩れ落ちていく小さな命を、何度も、何度も、抱きしめた。
まだ温もりはある。息も、感じる。
なのに、それは確実に削れていく。
触れているこの手の中から、ゆっくりと……消えていく。
「お願い……お願いだから、行かないで……!」
泣き叫ぶ声は、もう届いていないかのように、ただ静かに、白い灰が空へと舞っていった。
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