第1幕第2場「クランスター伯爵邸」
クランスター伯爵家はベルントリクス共和国では知らぬ者のない名家である。
晩夏に紅く
普段は学士院の寮で起き伏ししている二人は、ひと月の夏季休暇を実家で過ごしていた。とはいえ、長男のサイマンは休みに入ってからというもの出掛け詰めで、家族とろくに言葉も交わしていなかった。
兄を乗せた馬車が門を出て行くのを、今日も窓越しに見送ったマンヴリック。仔犬のような丸い瞳を食卓に戻すと、隣席の空白が目に留まる。手のつけられた痕跡の見当たらない食器を使用人が持ち去ると、まるでそこには初めから何もなかったかのようだ。
マンヴリックは縁が規則正しく波打った編み籠を引き寄せた。
まだ温かいを白パンを手に取り、ふたつに割る。割れ目を繋ぐ繊維質の柔らかい生地から、ふわりと小麦の香りが漂った。
「サイマン、毎日どこに行ってるんだろう」
一番手近にいた女中が左右に視線を逃した。誰かが答えてくれるだろうなんていい加減な期待をするのが間違いで、彼は今度は意図して顔を上げた。
大きな方卓を挟んで向かいにいる母親と目が合う。彼女はクロワッサンにストロベリージャムを盛るのに夢中だったようだが、末の息子の疑問を受けると眉尻を下げた。
「マンヴリックも知らなかったの? しょうがないわね、あの子ったら、こっちが探らないと何も言わないんだから」
「それで、どこへ?」
「研究都市へ」
マンヴリックは足元でミルクを舐めている愛犬の皿にパンの切れ端を落としてやった。
「研修を受けてるんですって。春からもう始まってたみたい。お友達と一緒だってところまでは聞き出せたんだけど」
口振りから察するに、彼女も最近になって聞いた話のようだ。ヒースの刈り入れと政治に多忙な父親は、彼女以上に何も知らないに違いない。
うっとりとしてクロワッサンを頬張る母親に、マンヴリックは、ふぅん、と浅く頷いた。
「オレ、研究都市まで出掛けてくるよ。ちょっと見に行ってみよう」
「これから?」
彼の母親は片手で口元を隠して、それから紅茶でクロワッサンを急いで嚥下してしまうと改めて口を開いた。
「馬車は出払ってるわよ。お父様がこの時期忙しいのは知ってるでしょう」
「じゃ、列車で行く。気にしないで、問題ないよ」
怪訝な表情で首を傾げる母を宥めて、マンヴリックは残りの朝食を浚えた。
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