第4話 誰かと少しだけ

その日も、特に予定はなかった。

朝、いつものようにお茶を淹れ、洗濯機を回し、干し終えた頃にはもう昼近く。

時間は静かに、そして確実に過ぎていく。


昼食はいつものもの――白ごはん、焼き魚、味噌汁。

慣れ親しんだ献立。飽きるけれど、楽だ。

食べることも、ただの「行為」になっている。


テレビもつけない。

スマホも見ない。

誰からも連絡は来ない。


でも、寂しくはない。

……はずだった。



午後、郵便受けに古い手紙が届いていた。

茶封筒に、手書きの宛名。懐かしい筆跡。


「あれ……」


差出人の名前を見て、思わず声が出た。

高校時代の同級生――澤井だ。


30年ぶりと言っても大げさじゃない。

卒業後、年賀状すらやめてしまい、それっきりだった。

なぜ、いま?


開けてみると、中には短い便箋が一枚。


「急に思い出して、書いています。○月○日に上京する予定があって、もし都合が合えば、少しだけ会えませんか。無理を言ってすみません」


文面はそっけないほど簡潔だったけれど、そこに込められた「ためらい」のようなものが、妙にあたたかかった。


正直、迷った。

会って、話すことなんてあるだろうか。

久しぶりの人と、どうやって接すればいいのか分からない。


だけど、その夜、返信を書いた。

「その日なら、大丈夫です」とだけ。



約束の日、待ち合わせ場所は喫茶店だった。

駅前の再開発で昔の風景は消えていたけれど、どこかで見たような茶色い看板に、妙に安心した。


澤井はすでに来ていた。

少し白髪が混じった髪、落ち着いたスーツ姿。

けれど笑顔は、あの頃と変わっていなかった。


「……変わらないね」

彼がそう言ったとき、私は笑ってしまった。


「変わったよ。中身は、かなりつまらない人間になった」


「それでも、会えてよかったよ」


たったそれだけのやり取りで、胸の奥がすこし緩んだ。



話した内容は他愛ないものだった。

お互いの近況、昔の友人の話、家族のこと。

一時間も経つと、話題は尽きた。

それでも、どこか心地よかった。


「昔はさ、もっと夢みたいな話ばっかりしてたよな」


そう彼が言ったとき、ふと、あの頃の景色が頭に浮かんだ。

放課後の教室、帰り道の坂道、誰にも話さなかった将来のこと。


私は、自分のことをつまらない人間だと思っていた。

でも、あの時間を共有した誰かの記憶に、私は今もいる。

そう思えただけで、不思議と少しだけ自分を許せた。


「じゃあ、また。元気で」


別れ際、彼がそう言って手を振った。

私は、静かに頭を下げた。


振り返ると、少しだけ涙が出そうだった。

誰かと過ごす時間が、こんなにも心をあたためるなんて、忘れていた。



帰りの電車、窓に映る自分の顔は、ほんの少し柔らかく映っていた。

今日は何か特別なことをしたわけじゃない。

でも、「誰かとつながった」という実感が、胸に灯りのように残っていた。


人と関わるのは、たしかに疲れる。

でも、ときどきなら――悪くない。


今日の私は、ちょっとだけ「他人」を許した。

そして、自分も。

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