第4話 誰かと少しだけ
その日も、特に予定はなかった。
朝、いつものようにお茶を淹れ、洗濯機を回し、干し終えた頃にはもう昼近く。
時間は静かに、そして確実に過ぎていく。
昼食はいつものもの――白ごはん、焼き魚、味噌汁。
慣れ親しんだ献立。飽きるけれど、楽だ。
食べることも、ただの「行為」になっている。
テレビもつけない。
スマホも見ない。
誰からも連絡は来ない。
でも、寂しくはない。
……はずだった。
*
午後、郵便受けに古い手紙が届いていた。
茶封筒に、手書きの宛名。懐かしい筆跡。
「あれ……」
差出人の名前を見て、思わず声が出た。
高校時代の同級生――澤井だ。
30年ぶりと言っても大げさじゃない。
卒業後、年賀状すらやめてしまい、それっきりだった。
なぜ、いま?
開けてみると、中には短い便箋が一枚。
「急に思い出して、書いています。○月○日に上京する予定があって、もし都合が合えば、少しだけ会えませんか。無理を言ってすみません」
文面はそっけないほど簡潔だったけれど、そこに込められた「ためらい」のようなものが、妙にあたたかかった。
正直、迷った。
会って、話すことなんてあるだろうか。
久しぶりの人と、どうやって接すればいいのか分からない。
だけど、その夜、返信を書いた。
「その日なら、大丈夫です」とだけ。
*
約束の日、待ち合わせ場所は喫茶店だった。
駅前の再開発で昔の風景は消えていたけれど、どこかで見たような茶色い看板に、妙に安心した。
澤井はすでに来ていた。
少し白髪が混じった髪、落ち着いたスーツ姿。
けれど笑顔は、あの頃と変わっていなかった。
「……変わらないね」
彼がそう言ったとき、私は笑ってしまった。
「変わったよ。中身は、かなりつまらない人間になった」
「それでも、会えてよかったよ」
たったそれだけのやり取りで、胸の奥がすこし緩んだ。
*
話した内容は他愛ないものだった。
お互いの近況、昔の友人の話、家族のこと。
一時間も経つと、話題は尽きた。
それでも、どこか心地よかった。
「昔はさ、もっと夢みたいな話ばっかりしてたよな」
そう彼が言ったとき、ふと、あの頃の景色が頭に浮かんだ。
放課後の教室、帰り道の坂道、誰にも話さなかった将来のこと。
私は、自分のことをつまらない人間だと思っていた。
でも、あの時間を共有した誰かの記憶に、私は今もいる。
そう思えただけで、不思議と少しだけ自分を許せた。
「じゃあ、また。元気で」
別れ際、彼がそう言って手を振った。
私は、静かに頭を下げた。
振り返ると、少しだけ涙が出そうだった。
誰かと過ごす時間が、こんなにも心をあたためるなんて、忘れていた。
*
帰りの電車、窓に映る自分の顔は、ほんの少し柔らかく映っていた。
今日は何か特別なことをしたわけじゃない。
でも、「誰かとつながった」という実感が、胸に灯りのように残っていた。
人と関わるのは、たしかに疲れる。
でも、ときどきなら――悪くない。
今日の私は、ちょっとだけ「他人」を許した。
そして、自分も。
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