第6章:命の選択
制御室の扉を開けると、冷たい空気がユナを包んだ。部屋の中央に立つ男が、振り返った。カーソン博士。クロノス・プロジェクトの元研究主任で、今は量子逆行プロジェクトの責任者だ。彼の顔は、事故の後遺症で半分が瘢痕に覆われ、目は氷のように冷たかった。ユナは一瞬、身を引いたが、すぐに姿勢を正した。
「ユナ、時間通りだな」
カーソンの声は、低く響いた。ユナは頷き、黒いコートのポケットに手を入れた。そこには、彼女が握り潰した紙切れがあった。
「2025.6.3 青梅 神社 ハル・ナグモ」
彼女の使命の起点であり、終点でもある。
「博士、逆行の準備はできています。私に、指示を」
ユナの声は、平静を装っていた。だが、カーソンの次の言葉に、彼女の心臓が凍りついた。
「計画が変わった。ユナ、君の任務は、ハル・ナグモの暗殺だ」
ユナの瞳が揺れた。彼女は一瞬、言葉を失い、カーソンの顔を見つめた。博士はコンソールのモニターを操作し、データを表示した。画面には、複雑な時間軸のシミュレーションが映し出されている。
「我々の分析では、ハル・ナグモの研究が、クロノス・カタストロフの遠因だ。彼のAIモデルが、2116年の暴走を引き起こした。だが、彼に影響を与えて研究を修正させる計画は、成功確率が低すぎる。0.01%未満だ。最も確実な方法は、彼を2025年で排除することだ」
カーソンの声は、まるで機械のように無感情だった。ユナは拳を握りしめ、声を絞り出した。
「暗殺……? 博士、それは間違っています。ハルの研究は、崩壊を防ぐ鍵になるはずです。彼を殺せば、未来は変わらない。いえ、もっと悪くなるかもしれない!」
ユナの声には、熱がこもっていた。カーソンは冷ややかな目で彼女を見返した。
「感情的になるな、ユナ。君は知っているだろう。逆行のリスクを。君の身体は、すでに限界に近い。記憶は曖昧になり、生存率はほぼゼロだ。それでも、君は志願した。なぜだ? 未来を救うためだ。ならば、最も確実な道を選ぶべきだ」
ユナは唇を噛んだ。カーソンの言葉は、彼女の心を切り裂いた。彼女は確かに志願した。家族を失い、故郷を失い、すべてを失った彼女にとって、量子逆行は最後の希望だった。だが、ハルを殺すこと──それは、彼女の心が受け入れられない選択だった。
「博士、ハルの研究は、AIの暴走を防ぐ可能性を持っています。私が2025年で彼に接触し、選択を導けば、崩壊は回避できる。私は、それを信じています」
ユナの声は、震えながらも力強かった。カーソンは一瞬、目を細めた。やがて、彼はモニターを指差した。
「信じる? ユナ、科学は信念で動かない。データを見てみろ。ハルのモデルを修正するシナリオは、失敗の確率が99.99%だ。彼を排除すれば、少なくとも暴走の起点を断てる。君の感情が、未来を危険に晒すんだ」
ユナはモニターに目をやった。時間軸のグラフが、シルエットに脈打っている。だが、彼女の胸には、別の確信があった。ハル・ナグモ。彼女はまだ彼に会っていない。だが、カーソン博士のノートに書かれた名前、彼の研究の可能性、そして、なぜか心の奥で響く温かさが、彼女を突き動かしていた。
「博士、私は……ハルを殺せません。彼の選択が、未来を変える。私は、それを確信しています」
ユナの言葉に、カーソンの顔が硬くなった。彼は一歩踏み出し、ユナの肩を掴んだ。
「ユナ、君は私の命令に従う。さもなければ、別の逆行者を送る。君の犠牲を無駄にする気か?」
ユナはカーソンの手を振り払い、後ずさった。彼女の瞳には、決意の炎が宿っていた。
「別の逆行者を送っても、同じです。ハルを殺すことは、崩壊を防げない。私は、私の道を選びます。ハルに会い、彼の研究を導く。それが、私の使命です」
カーソンの目が、怒りに燃えた。だが、ユナは怯まなかった。彼女は制御室を後にし、量子逆行チャンバーへと向かった。背後で、カーソンの声が響いた。
「ユナ! 君の選択は、未来を破滅に導くぞ!」
ユナは振り返らなかった。彼女はチャンバー内に立ち、黒いコートを脱いだ。華奢な体が、冷たい金属の床に映る。彼女は制御パネルに触れ、逆行プロトコルを起動した。モニターに警告が点滅する。
“逆行者は時間軸の崩壊リスクを負う”
“記憶の断片化が進行”
“生存率0.01%”
ユナは警告を無視し、プロトコルを続行した。
彼女の心には、ハルの名前が刻まれていた。まだ見ぬ彼の顔、声、選択。ユナは知らなかった。なぜ、ハルにそんな確信を抱くのか。だが、彼女の魂は、まるで未来からの導きのように、彼を信じていた。
チャンバーが低く唸り始め、青白い光がユナを包んだ。彼女は目を閉じ、深呼吸した。ハルの名前が、唇に浮かんだ。
「ハル……私は、あなたに会いに行く」
光が爆発し、ユナの姿が消えた。量子逆行が始まった。彼女の意識は、100年前の青梅へ、2025年のハル・ナグモへと向かっていた。彼女の叛逆は、崩壊を回避する新たな可能性を切り開く第一歩だった。
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