名乗らぬもの
朝の空気は少しばかり冷たさが残り、昨日の初出勤が夏日の昼下がりだったせいか、今朝は幾分か身軽さを感じる。
それでも不安は今なお残り、だらだらと引き摺る真っ当な社会人としての責任だとか、職場に馴染めるかどうかに加えて、初日の社内で起きた現象――安置室のお鈴の音――が、帰宅してからというもの脳裏に焼き付いていた。一度受け入れかけたものの、やはり理解できる現象ではない、理屈の外にあるもの。
去来する恐怖は露のように払えど消えるものではなく、不定ながら重なるそれに、会社に近づくにつれ足が重くなっていくのを感じた。
拗れた思考を巡らせながらも決められた道を辿れば着くのは道理で、今日もまた住宅街の狭間に立つ墓石じみた建物が現れる。
と同時に、玄関前に誰かが立っているのが見えた。
まだ風に涼しさが残るとはいえ、この暑さの中で真っ黒なスーツにネクタイという出で立ち――社員だろうか。背格好からして男だろう。まだ始業前だというのに、悠然と竹箒を滑らせている。
真面目な人も居たものだ。どれだけ労働に関わる時間を減らすかに注力していたアルバイトの時期を浮かべ、俺は忸怩たる思いに駆られた。
「おはようございます」
玄関扉に手をかける前に、常識的に挨拶はしておくべきだろうと軽く声を掛けた。男は不意に竹箒を動かす手を止めてこちらを向く。そのままじっとこちらを見たかと思えば、少しの間をおいて、口元を緩めて軽く頭を下げた。
戸を開けた途端に染み出す冷気は相変わらずで、汗ばんだ肌が急激に冷やされ鳥肌が立つ。扉に備えられたベルが鳴り、昨日と同じように、右手の事務所から女が顔を出した。
「おはようございます。今日はこっちに来てください」
昨日の、客を相手にするような態度とはうってかわって、にこやかに手招きされる。事務所に入ると、奥でなにやら言い争うような声が聞こえた。
「ですから何度も言ってるでしょう。あちらさんのお家でしたら、別のプランを勧めても良かったでしょうに。どうして社長は毎度そうなんです」
「ちゃんと提案しましたよ。ただ、それでも向こうがこっちを望まれたんです」
低く落ち着いた社長の声に対して、やや苛立ちを含んだ年配の男の声。どちらも声を荒げているわけではないが、どうにも噛み合わないらしい。
「無理強いするものでもないでしょう。後の供養に重きを置いてらっしゃる方でしたし。……その分オプションを付けていただいて、納得のいく形になったみたいですし」
年配の男は釈然としない顔で黙り込んだ。いくら年上とはいえ、社長の判断に強く反論ができないようだ。
それにしても、売り上げを伸ばせというならともかく、売り上げ度外視の提案をするというのは、俺が持っていた社長のイメージとかけ離れている。昨日も感じたが、
しばらく二人のやりとりを眺めていると、隣で溜息を吐くのが聞こえた。
「ごめんね、いつもあんな感じなの」
小声で笑った彼女は、慣れた様子で呆れたような顔をする。
「……いつも?」
「うん。ただどっちもお客様と会社のことを考えてるからぶつかるだけで。バランスは取れてるし、結果、良いお式になるんです」
お客様の評価も高いんですよと得意げに加えた。少しばかり緊張が緩む。なるほどと頷いたところで、彼女は傍らに居た中年の女に目配せした。
「せっかく来てくれたのに、こんなのじゃ嫌になっちゃうわよねえ」
パソコンから顔を上げた女は朗らかに笑って言う。笑い皺の入った目元が、人の良さを感じさせた。
「沙良ちゃん、ちょっと言ってきてくれる?」
「はい」
「それと……とりあえずね、まあここに座りなさいな。
促されるまま席に着いた俺の前を、沙良と呼ばれた事務員が軽やかに歩いて行く。二人の間に割って入ったかと思うと、程なくして社長がこちらにやってきた。
「悪いね、気付かなくて」
社長は昨日と変わらぬ軽い口調のまま、申し訳なさそうに眉を下げた。どちらに非があるわけでもないのに、こちらが恐縮してしまう。この態度で謝られれば、余程の事でない限り許してしまいそうな気がした。
「いえ、大丈夫です」
「ありがとう。とりあえず、君のことを紹介したいんだけど良いかな」
俺が頷くと、社長はおもむろに振り返り、年配の男を呼ぶ。
「
社長が去ったあとも書類を睨んでいた男は、やにわに顔を上げて老眼鏡を直したかと思うと、先程からの険しい顔から翻って目を見張り、それから満面の笑みで近づいてきた。
「よろしくなあ、若い子が入ってくれて助かるったらない。頼りにしてますよ。力仕事なんかはこの年になると辛いもんで」
「はい、よろしくお願いします」
少し気圧されながらも、俺は立ち上がって頭を下げた。
いやはや良い子を採りましたな、と社長の背中を叩きながら機嫌良く笑う道明さんに、社長もそうでしょうと得意げな顔を返す。沙良さんの言うとおり、仲が悪いわけではないようだ。
「道明さんは施行担当。現場の方ね。白石さんと桂子さんは事務やってもらってる」
事務員と中年の女――白石さんと桂子さんは、揃ってよろしくねとまたにこやかに笑って見せた。桂子さんだけが名前呼びなことに多少の引っかかりを覚えたが、胸元のネームプレートを見ると、『西堂桂子』とある。社長と――家族経営である『西堂葬儀社』と――同じだ。あまり被るものでもないだろう。つまりは社長の親族で、名字呼びをすると誰のことを示すのか混同するからなのだと推測した。
「今日居るのは私含めて四人と、あと一人出てるけど直帰の予定だから……他の社員は今度紹介するね」
社長の言葉に、俺は違和感を覚える。
「あの、玄関に居た方は社員じゃないんですか」
行きしなに見た黒いスーツの男を思い出す。社員として紹介されないならば外部の業者か善意のご近所さんかと思ったが、ならばスーツである必要がないように思える。
四人の様子を窺うと、きょとんとした顔をして顔を見合わせていた。
「玄関前で掃除されていたと思うんですけど……」
俺がそう言うと、ようやく思い出したように頷き合った。
「
「朝霞さん?」
桂子さんが言って、三人も同調する。
「社員の方ですか」
「いや、社員じゃないと思うよ、聞いたことないし」
「じゃあ業者さんとか近所の方とか」
「多分違うと思うけどなあ」
要領を得ない社長の返答に、俺は困惑した。はっきりと所属を述べられないものならば、あとは不審者しか思いつかない。……そこまで思い至ったところで、俺は昨日の安置室を思い出した。独りでに鳴るお鈴の音、昇る煙――。
先程挨拶を交わした時点では、何の違和感もなかった。昨日のように、明らかにおかしい現象ではない。だが選択肢として含まれるほど、この会社では当たり前にそういうことが起こるのではないかと考えてしまう。
それに、昨日の社長の、怪異への耐性を見るような発言は、安置室のものばかりでなく、この会社で起こる様々な事柄――およそ理屈では説明できないような――について言っていたのではないか。
嫌な予感がしつつ、俺は社長の方を窺う。
「私もよく知らないんだけどね、ずっと居る、らしい。毎朝」
昨日はお昼からだったからねと、あっけらかんと言う。そして道明さんに、ねえ、と同意を求めると、
「そうですねえ、私が入社したときから居ましたから」
道明さんも頷く。俺は明確な答えが欲しくて、口を開いた。
「でも名前はあるんですよね」
先程、朝霞さんと呼んでいたことを指摘する。社長はそうだねと言いつつ、首を傾げた。
「誰かが勝手につけただけだよ。今となっては誰が言ったか分からないけど。祖父さん――二代目もそう言ってたから」
いよいよ逃げ場がなくなったように感じた。社長の祖父の代から変わらない、名乗らない存在。見たところ年配ではなかった風貌からすれば、不審者とするにも、最早人間離れしていることを認めざるを得ない。
「朝に居るからという事でしょうな」
道明さんが足しにもならないことを言った。今はそれどころじゃないんだと突っ込みたくなる。それでも名前に関して問うたのはこちらなので、黙っていることにした。
「まあ、悪い人じゃないから」
俺が黙ったのをどう捉えたのか、社長がやらかした子どものように肩をすくめて見せる。社長が言うならそうなのだろう。何も知らない彼に縋るのも見当違いかも知れないが、今はそれで納得するしかない。
挨拶を交わして、数十分、今のところ何の障りもない上、毎日のように見ているであろう彼らは今日もこうして業務に当たっている。それに、昨日の時点で何も言わなかったのであれば、伝えるほどのことでもないと考えたか、伝え忘れるほど留意する点がないと思ったのかだろう。性善説で捉えれば、だが。
「そうですねえ。それどころか、玄関前の掃除なんか手が回らないから助かりますし」
白石さんが言うと、桂子さんも、
「朝からあんなことやってられないわね」
と玄関の方を見やった。磨りガラス越しには何も見えない。ただ次第に強くなっていく朝日が、白く滲んでいるだけだった。
「そういうものですか」
「そういうもんだね」
「ですね」
各々が頷き、気にする素振りもない。その様子を見ていると、段々と気にしているのが馬鹿らしくなってくる。そういうものなら、怖がる必要もない。朝だって、怖くなかっただろう……。
そう言い聞かせて、俺はそうなんですねと、聞き分けの良いことを言って雑に締めた。
「大丈夫なら、仕事の話をしようと思うけど」
社長がひとつ手を叩いて宣言する。俺はよろしくお願いしますと頭を下げて、歩き出した社長に着いて奥へ向かおうとした。だが数歩進んだところで、不意に社長が立ち止まる。危うく背中に突っ込むところだ。くるりと振り向いた彼は、真面目な顔をして言う。
「ああ、でも
「裏田さん」
「しばらく夜勤は任せないから関係ないけど、そっちは目を合わせればよくないから」
一先ず安心したところになんてことを言うんだと些か怒りを覚えたが、表出するわけにもいかない。慣れがあると気が緩むだろうと、それに巻き込まれるのは堪ったものじゃないと、危ないならば忘れずに言っておいてくれと、山のように浮かんだ言いたいことを押し殺す。
俺はもう、出会ってから考えようと思考を放棄して、細められた社長の黒い目を見つめた。
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