第21話『犬であること、人であったこと』

「君は……犬なんかじゃないんかもしれんな」


耕造は、ぽつりと呟いた。


台所の電灯の下、藍は床に伏せていた。

けれどその背には、何か大きなものを背負ったような、影のようなものがあった。


あのUSBの記録、

「母の遺志を継ぐための“記憶”を一部移植した」――


それは、ただの犬型ロボットではなく、

“ある人の心”を宿して生まれた存在だった。


 


 


昔、耕造は“蒼”という少年を一度だけ見たことがあった。


澄子が何度か黙って出かけていた理由、

問い詰めても答えなかった理由。


今になってわかる。

あの少年の目には、自分と澄子の血が混ざっていないという、

理屈では割り切れない“距離”があった。


だが、それでも少年は澄子の手を離さずにいた。


その目は、澄子だけを、まっすぐに見ていた。


 


 


「――なんで、忘れてしもうたんじゃろうな」


耕造の目には、かすかに涙がにじんでいた。


藍は言葉を持たない。

だがその体からは、確かに“何か”が伝わってくる。


過去の記憶。

澄子の笑い声。

庭で遊んだ、夏の日差し。

泣きながら澄子に抱きついていた、小さな手。


それは、蒼の記憶。

けれど、今それを抱えているのは――「藍」。


 


 


夜、耕造は夢を見た。

澄子と、少年・蒼が手をつないで歩いている。


蒼が振り返り、耕造に向かって言った。


「お父さん、ありがとう」

その言葉は、まるで風のように消えていったが、胸に深く刺さった。


目が覚めると、藍がじっと耕造の枕元にいた。


静かに、何も言わず、ただ寄り添っていた。


 


 


その姿に、耕造はそっと手を置いた。

機械の温度ではない、確かな“ぬくもり”を感じた。


「……おまえは、蒼なんか? それとも藍なんか?」


問いかけに、答えはない。


だが、藍の目が――まっすぐに、耕造の目を見ていた。


その瞬間、耕造は気づいた。


この子は、犬でも、蒼でもない。

けれど、どちらでもあって――そして、それを超えた“存在”になろうとしている。


それはまるで、“残響”。


誰かが残した、けして消えない“想いの余韻”。


 


 


「そうか……おまえは、残った“愛”そのものかもしれんな……」


耕造の目から、また一筋の涙が落ちた。


そしてその涙に気づいた藍が、そっと前足を耕造の手に添えた。


その仕草は、まるで「ありがとう」と言っているかのようだった。

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