第19話『わたしは、だれ?』
その夜、藍は夢を見た。
小さな足音。
にじんだ夕焼け。
どこかで風鈴が鳴っている。
「蒼、おいで」
夢の中で、その声は確かに“母の声”だった。
でも――その母の顔は、はっきりしない。
ただ温かくて、すこしだけ寂しげだった。
藍は、夢の中で「蒼」と呼ばれていた。
その名が、心の奥にすとんと落ちる。
痛みと、懐かしさと、わからない涙がこみあげてくる。
目が覚めたとき、畳の上に日が差していた。
藍はいつものように、耕造の枕元に座っていた。
だが、今朝の藍は、どこか違っていた。
心の奥が、ざわざわと揺れていた。
自分の名は、本当に「藍」なのだろうか?
あの夢の中で呼ばれた“蒼”という名。
その響きが、自分の内側に深く刻まれているように思えた。
耕造は、朝食の準備をしていた。
台所の味噌汁の香り。
ラジオから流れる天気予報。
「今日はええ天気じゃな」
耕造の声が遠い。
藍は思わず、声にならない声でつぶやいた。
――わたしは、だれ?
その日、蔵の前で、藍はふと足を止めた。
古い、木の戸の節目から漏れる埃のにおい。
何かに導かれるように、藍は中へと足を踏み入れた。
一番奥の棚の上に、ひとつの箱があった。
人間の手では開けないはずの箱。
だが、藍の鼻先がそれに触れたとき、ふわりとフタが外れた。
中には、ひとつの首輪。
そして、手のひらに収まりそうなUSBメモリ。
耕造が遅れて中に入ってきたとき、藍はすでにUSBを口にくわえていた。
リビングに戻り、耕造は古いノートパソコンを立ち上げた。
USBを差し込むと、そこにはたった一つのファイルがあった。
「AI記録:藍_補助記憶・深層潜在記録」
クリックすると、音声が流れ出す。
「記録開始。記録日不明。開発者:蒼。
本ユニット“藍”には、母の遺志を継ぐための“記憶”を一部移植している。
AIは感情を持たない――そう言われていた。
だが、わたしは信じたい。“想い”は、記録できる。
そして、“愛”は、プログラムを超えて届くと。
藍には、母の声を、感触を、記憶のかけらを伝えた。
彼女はもういないけれど、この子が彼女の一部を受け継ぎ、
誰かのそばで“ただいま”を聞ける存在になれたなら……
それだけで、わたしの人生は報われる。
記録終了。」
耕造は、椅子の背もたれにもたれたまま、しばらく動けなかった。
藍は――いや、“蒼の記憶を宿した藍”は、そっと耕造の手に鼻先を寄せた。
そのぬくもりは、まるでずっと昔から、そこにあったようだった。
耕造の目から、ひと粒の涙が落ちた。
「……おかえり。蒼」
それは、澄子が残した“もう一人の家族”への、言葉にならなかった“愛”の行き先だった。
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