第2話 実家との別れ

 今日もまた一人、この屋敷から人が消えた。その分自分の持ち場が増えるのが嫌だ。どうせ、近々みんないなくなるのだから仕事なんていい加減でいいじゃないか。給金も出ないだろうし。クロードはそう思ったものの行動に移すには至らず、雑念を振り払うかのように手を動かした。


 元は馬の世話をしていたが、厩舎の馬が全て売り払われたので、館内の仕事に回された。掃除や洗濯はもちろん、時折厨房の手伝いにも行っている。屋敷に残っている使用人は、最早わずかだ。そのため、一通りのことがこなせるクロードはあちこちに呼ばれた。


(ウィリアムズのじじいは最後まで残るだろうから俺も身動きできねーじゃねえか。もっとも雇ってくれるところなんかどこもないだろうけど)


 デルア人のクロードは十歳で病気になり、一族に捨てられた。足手まといだからと、この街に置き去りにされたのだ。


 酒場の主人が見かねて、彼を医者に診せてくれた。幸い回復したが、主人から働いて治療代を返せと言われ、そのまま住み込みで働くようになる。親代わりとして育ててくれたと言えば聞こえはいいが、安価な労働力が欲しかっただけかもしれない。不当な扱いではなかったが、十分こき使われたことは確かだ。


 十五歳の時、主人が倒れそのまま帰らぬ人となった。独りぼっちになった彼を、今度は酒場の常連だったウィリアムズが引き取ってくれた。


 ウィリアムズは、この街一番のお屋敷の執事をしていると言う。そこの馬丁に空きがあるというので採用されたのだ。孤立無援のところを拾ってくれたのだから、ウィリアムズに感謝すべきなのは分かっている。


 しかし、この家の主人は碌でもない人間だった。気に入らないことがあれば、腹いせに使用人を殴るのは日常茶飯事、しかも酒を飲んだ日には手がつけられなくなる。


 飲み屋で潰れていると知らせが入ると、決まってクロードが行かされた。殴られながら家まで運ぶ役が必要だからだ。断るとウィリアムズが老体に鞭打って動かなければならないので嫌とは言えない。それでも嫌なことには変わらず、馬を相手にする方がどれだけいいだろうといつも思っていた。


 ひどいのは主人だけでない。長男も父の血を受け継いだ乱暴者で、女主人も自分の不注意でなくした装飾品を使用人が盗んだとしょっちゅう騒ぎ立てては解雇していた。そのため、この家には使用人がいつかない家として有名だった。


 クロードは、何度この家を出て行こうと思ったか分からない。しかし、ウィリアムズが辛そうにしているのを見るにつけ決意が揺らいだ。


 それに、デルア人の自分を雇ってくれるところはなかなか見つからない。今いるところも、ウィリアムズの顔を立てるのと、主人と顔を合わせる機会が少ないという理由からお目こぼしされているだけだ。クロードが顔を合わせる時は、大抵向こうが酔っ払っている時なのは好都合と言えた。


 ずっとこの家にいるのだろうかと漠然と思い始めたころ、バートン家の財政が傾きだした。主人の機嫌はいっそう悪くなり、些細なことで声を荒げる回数が多くなる。どうやら原因は、主人と長男のギャンブルで作った借金らしい。


 この噂を聞いた使用人は一人また一人と屋敷を去っていった。クロードも出て行きたかったが、ウィリアムズが困ったような目でチラチラとこちらを見てくる。くそっ、あのジジイめ! クロードは、心の中で散々悪態をついたが、行動に移すまでには至らなかった。


 そしたらウィリアムズはさらなる要求をしてきた。何と、この屋敷に残された令嬢の世話係になってほしいと言うのだ。


 はあ? クロードは目を剥いて思わず呆れた声を上げた。行く当てのない弱みにつけこんで、厄介者の世話を押し付けるつもりか? 詰め寄るクロードに、ウィリアムズはこう返した。


「金目になりそうなものは全て借金返済にあてたから一人しか雇えないそうだ。ボディーガードと身の回りの世話を兼任できるのはお前しかいない。転居先も随分侘しいところだからな。荒れ果てた家を格安で買い取ったらしい」


「女の世話なんてできねーよ! しかもバートン家の女だろう?」


「エミリア様は違う。去年寄宿舎からお帰りになったばかりだからお前はよく知らないだろうが、他の方と違い優しくてしっかりしたお方だ。バートン家の血を引いているのが不思議なくらいだ」


「辺鄙な田舎に若い男女が二人いたらどうなるかぐらい、あんただって知ってるだろう? こっちは聖職者じゃねーんだぞ!」


「そこはお前を信用するしかない。他に適当な人間がいないのだからやむを得ない。だが、お前なら……と思わんこともない。エミリア様をこれ以上不幸にしたくないんだ」


 はあ? 今のはどういう意味だ? なおもクロードが問い詰めても、ウィリアムズはもう何も言わず、首を横に振るだけだった。こんな狂った家に長年勤めていると使用人まで頭がおかしくなるのだろうか。


 六年間の寄宿舎生活から帰ってきた娘がいることはクロードも知っていたが、顔を合わせる機会は少なかった。一度だけ会ったことはあるが、向こうは覚えていないだろう。


 顔は悪くない。褐色の髪をさらりと流し、きりりとした顔立ちの真面目そうな女だ。見てくれは悪くないが、金と手間をかけて磨けば、大抵の人間はそれなりの見た目になる。どうせ、すぐに本性を表してくるだろう。血は争えない。所詮この女も結局はバートン家なのだから。


**********


 エミリアが家を去る日がやって来た。母は数日前に実家に帰ったのですでにいない。この家に残るのは自分とウィリアムズ、そして下僕となるクロードだけだった。


「ウィリアムズ、今までありがとう。一生かかっても恩を返しきれないわ。本来なら引退した執事には郊外の一軒家でも与えるものだけど。不甲斐ない雇い主でごめんなさい」


「私のことなら心配しないでください。自分の生活はどうにかなります。それより、ここでエミリア様とお別れになるのが辛うございます。可愛らしいお子様だったのがここまで立派になられて……できることなら最後までお仕えしたかった。どうか、新天地でも健やかにお過ごしください。代わりにこのクロードがおりますので。不自由なことがあれば遠慮なく彼を頼ってください」


 ウィリアムズはしわしわの両手でエミリアの華奢な手を包み込み、何度も何度も頭を下げた。家族よりも使用人の方がエミリアに親身になってくれたが、その筆頭がウィリアムズだ。直接仕えていたのは父だったが、仕事の手が空いた隙を見計らってよく話し相手になってもらった。


 エミリアも目に涙を浮かべてウィリアムズとの別れを惜しむ。一方、クロードは、そんな二人を見て、忌々しい表情を浮かべている。何て茶番なんだ馬鹿馬鹿しいとその顔は言っていた。


 いつまでも名残惜しく別れ難かったが、エミリアはようやく決意して鞄を手に持った。


「ずっとこうしていたいけど、列車に遅れそうだからそろそろ行くわ。落ち着いたらあなたのところにも遊びに行くから。それじゃごきげんよう」


 そして未練を断ち切るように慣れ親しんだ家を後にした。これから行くところは、こことは比べものにならないくらい小さくて古ぼけた家だ。あちこち壊れていてそのままでは住めないだろう。


 今までの生活とは雲泥の差になるのは火を見るより明らかだ。ドアを開けて外に出てからは振り返ることなく、ただ前を向いて一歩一歩地面を踏み締める。


 その時、クロードが前に出てエミリアが持っていた鞄をひょいと取った。


「女性には重いでしょう? 俺が持ちますよ」


「これくらい私でもできるわ。ちょっとの間だから」


「このために俺を雇ったんでしょうが。長旅だから無理しない方がいいですよ」


 負けじと主張したエミリアだったが、クロードの素っ気ない一言に黙るしかなかった。確かに小柄なエミリアでは体より大きな鞄を担ぐだけでフラフラしてしまう。強がりたい気持ちと現実は甘くないという認識がぶつかり合い一人唇をかんだ。


 待たせてあった馬車に乗り駅まで向かう。そこから長距離列車で目的地ノーザンドへは二時間ほどかかる。この列車の長旅の間、エミリアは三等車で過ごすのが心配だった。今まで鉄道の旅で三等車なんて使ったことはない。しかし、これからの生活はそんなこと言ってられない。


 実際に三等車に足を踏み入れたエミリアは、荷物のように人が押し込められた車内を見て言葉を失った。薄いクッションの固い椅子で二時間も耐えられるだろうか。こんなに人が密着していて大丈夫だろうか。


 そんなことを思いながら立ち尽くしていると、クロードはさっさと座席に座って、エミリアに目で合図を送った。我に返って彼の隣に腰を下ろす。その時こんな会話が聞こえてきた。


「あれはバートン家のお嬢様じゃないか。どうして三等車なんかに乗ってるんだ?」


「博打で家が没落してああなったんだよ。屋敷と土地も借金のカタにとられて一文なしで追い出されたらしい」


「何とおいたわしや。バートン家と言えばこの辺で一目置かれる家だったのに、いつの間にそんなことに」


「領主がバカだったのさ。家族にとってみればいい迷惑だ。あんなきれいな身なりをしているのに三等車なんてねえ」


 相手はヒソヒソと話しているが、すっかり筒抜けだ。エミリアは聞こえないふりをしようと努めたが、意思に反してだんだん頭がうなだれるのを止めることができなかった。早くこの会話が終わればいいのに。そう思っていると、隣に座っていたクロードがいきなり立ち上がった。


「ここは空気が悪い。別の車両に移りましょう」


「えっ、えっ?」


 エミリアが何も言い出せないうちにクロードは荷物を持ってスタスタと隣の車両へ移動していく。エミリアはオロオロしながら後を追うしかなかった。


(まさか私を気遣ってくれた……のかしら?)


 怪訝に思って彼の顔を伺うが、髪の毛で目元を隠し仏頂面は変わらず、おいそれと話しかけられる雰囲気ではない。新しい場所に空席を見つけ、再び座ってからも一切会話はなかった。


「あ、ありがとう……」


 勇気を振り絞ってお礼を言う。しかし、彼は彼女を一瞥したきり、何も言わなかった。


 やがて列車は汽笛を鳴らして出発し、故郷の土地がだんだんと遠ざかっていった。実家の生活は、必ずしも幸福とは言えなかったから、感傷めいた感情とは無縁のはずだ。だが、悲しみとも違う、心にぽっかり穴の空いた感覚がエミリアをさいなむのであった。

 


 

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