第7話 影のささやきと希望の光





 ◆◆◆


 夜の黒に沈む、ソレイユ城の一角の部屋で。


「スペクルム、スペクルム……レヴェラ、クォド・エスト・アブスコンディトゥム……」

 ひそかなささやき声が響いていました。



 声の聞こえるその部屋は、小さく、暗くて、かびくさい、なんとも不気味な場所でした。

 じゅうたんに敷かれるのは何かもわからない動物の毛皮。部屋を照らすのは一人でに浮かぶろうそく。真ん中に置かれるすすけた木のテーブルの上には、真ん中にまばたきをする目が浮かぶ水晶玉やあやしい題名の分厚い古文書、槍につらぬかれた天使や黒い笑みを浮かべるけものの描かれたタロットカードが雑多に散らばっています。


 そしてその部屋の主は、体を宝石で飾り、目元をかくすヴェールをまとって。

 壁にかけられた何か平たいものに向かって、熱心に祈りを捧げていました。



 それは────一枚の、大きな鏡でした。



 絡み合うつたの縁に囲まれ、深い赤を宿す大粒の宝石がはめ込まれた豪華な意匠の鏡です。その鏡面はただぼんやりと、薄暗い部屋の壁を映していました。

 豪華で美しく、どことなく怪しい鏡。一言で表せば、そうなるでしょう。

 しかしそれ以外は、その鏡には大した特徴もありません。いたって普通の、どこでだって見つけられそうなその鏡に、しかし部屋の主は愛しげにそっと手を伸ばしました。

 めでるように鏡の縁をなで、再び呪文をことほぎます。

「スペクルム、スペクルム……レヴェラ、クォド・エスト・アブスコンディトゥム」

 ふしぎな響きの言葉が、しんと静かな部屋の空気を揺らしました。

 すると。


 鏡面がぐにゃりと揺らぎ、ぐるぐると渦を巻き始めました。


「………」

 部屋の主は生えた長いしっぽを機嫌よく揺らして、鏡をじっと見つめます。

 冬の寒空を思わせる冷たい色の瞳が、えものを狙うけもののような熱を宿していました。



 やがて。


 鏡は一つの影を映し出しました。



 鋭い牙や爪、いやしい目を持った黒い影を。




「………」

 部屋の主は一人ほほえみ、舌なめずりをします。

 痛いほどの静寂の中、くちびるをぬらす水音だけが響きました。






 ────これは誰も知らない、けれど確かに起こった、夜闇の中の一幕です。



 ◇◇◇


 さて、舞台は変わり。


 ある朝のこと。ソレイユ城の中庭にて、その会話は交わされました。



「そういえばディアナには、オレの『とっておきの魔法』を見せてなかったな!」


「ラフィさま」

 今日も今日とておけいこに付き合うディアナのもとに、休憩と称してラフィがとことこと寄ってきました。

 ディアナは首をかしげます。

「ラフィさま……おけいこはもういいんですか?」

「休憩だよ、休憩。あんなの休まなきゃやってられないっつの」

 ああ疲れた、部屋に戻って遊びたい、とぶつぶつぼやきながら、ラフィはディアナの隣にぺたんと座ります。ディアナもずいぶんラフィに心を許してきて、しっぽをぴんと立てると少しだけ体を寄せました。

「それにしても、ラフィさまの『とっておきの魔法』? どんなものなんですか?」

 首をかしげると、ラフィは「よくぞ聞いてくれた!」とばかり、ぱあっと顔を明るくしました。

「それはもう、すっげえ魔法なんだぜ! なあ、見たい? 見たいだろ? 見せてやってもいいぞ!」

 そのしっぽも耳もぴこぴこと揺れて、とってもご機嫌なようです。それにこの聞き方。『見せて』って言葉を引き出そうとしているに違いありません。

 ディアナはくすくすと笑ってうなずきました。

「ふふふ。ええ、拝見したいです。見せていただけるんですか?」

「まあ、しゃーねえな! ディアナがそーんなにオレの魔法を見たいってんなら、見せてやってもいいぜ?」

 えっへんと胸を張って自慢げなラフィ。それはもう自信があるようです。

「ええ、お願いします」

 ディアナがそううなずくと、ラフィは「よしきた!」とばかりうれしげにしっぽを振りました。そして、

「じゃあ見せてやるよ! まばたき厳禁な!」

ラフィは器のようにした手を口に近づけ、ふっとその中に息を吹き込みました。

「『サンライズ・パレット』!」

 呪文をことほぎ、そうっと手を開きます。

 すると。


 ふわり。


「わあ!」


 ラフィの手の中から、蝶の群れが飛び立ちました。


 蝶はそろって淡い金色で、きらきらと美しくきらめいては光を放っていました。手をのばせばひらひらと近寄ってきて、ひたりと指の先にとまって羽を休めます。蝶には実体がないのか、触れた指先には春の日差しのような暖かさだけが残りました。


 その様子は、まるで。

 光を蝶の形に変えて、飛ばしているようでした。


「すごい……! とってもきれいですね!」

 ディアナは瞳をきらきら、しっぽをふりふりさせて蝶を見上げます。明るい日の下できらめく蝶がはばたくようすは、まるで夢の中のような美しさです。

 ラフィはうれしそうにほおを染めました。

「そうだろ! これがオレの魔法、『サンライズ・パレット』だ!」



 『サンライズ・パレット』。ラフィだけができる、ラフィだけの魔法です。

 その中身は、『ねんどのように光の形を変えて、動物やものの形を作る魔法』。真っ暗闇の中では魔法を使うことはできませんが、少しでも光があればそれをこねてものを作ることができます。

 当然光なので実体はなく、それにともなって攻撃力もありません。この魔法で作った剣はひとを斬ることはできませんし、この魔法で作ったライオンはひとを襲うことはありません。戦いでは全くと言っていいほど役に立たない魔法です。


 それでも、奇跡のような美しい光景を見せてくれる魔法を。

 ラフィはとても気に入っていました。



 そしてこの魔法がお気に召したのは、ラフィだけではないようです。ディアナもまた、興味津々の顔で蝶を見上げました。

「本当にきれい……ちょうちょ以外も作れますか?」

「当たり前だろ! このラフィさまを舐めんなよ!」

 ラフィは意気込むようにしっぽをぴこぴこ振って、また呪文を唱えます。

「『サンライズ・パレット』!」

光かがやくアルパカや犬、ウサギにキツネにリスが現れました。どことなくラフィとディアナ、ミルリィやイーヴァやチュチュに似ています。

「すごーいっ! わたしたちです!」

「だろだろ、すげえだろ!」

 目をかがやかせて褒めれば、ラフィも鼻高々とふんぞり返ります。

「出せるのは動物だけじゃないんだぜ! 船とか馬車とかだって────」


「おしゃべりもほどほどにしてくださいませ、坊ちゃん」


 ずん、と。

 二人の頭上に影が差しました。


「あっ……じいや」

 ラフィがさっきまでの笑顔を消して、途端に慌てた顔つきに変わります。

 じいや────イーヴァはラフィにぴしゃりと言いました。

「休憩をとるのはいいことですが、もう少し時計も見てくださいまし。もう、さっき中断してから十分も経っています」

 金色の懐中時計を見せつけるイーヴァ。「そんなに!?」とラフィが目を見開きました。

 イーヴァはため息をつきます。

「はあ……あなたってひとは。ほら、行きますよ」

「ええー……」

 無慈悲に手を掴まれ、連れて行かれるラフィ。

 ずりりり、と引きずられながら、ラフィが叫びました。

「じゃあ、後でいっぱい見せてやる! お前の魔法も見せろよー!」

 その姿がなんだか間抜けでかわいくて。

「楽しみにしてまーすっ!」

 ディアナもくすくすと笑いながら答えました。






 その日の夜。


 ディアナは魔法のランタン片手に、夜の廊下を歩いていました。


 始まりは、ラフィからの命令でした。

「どっかにぬいぐるみを落としちゃった。探してきて」

 その言葉にしたがい、ディアナは部屋の外までやってきたのです。

「ほら、これ。月が出てたって、明かりなしじゃ大変だろ」

 そう言っておもちゃの鳥かごに『サンライズ・パレット』の小鳥を入れた、お手製のランタンをラフィに貸してもらって。


 落としたぬいぐるみは赤いリボンをつけたシェパードで、ポメロというようでした。

 もちろんディアナはどこでラフィがぬいぐるみを落としたのかは知りません。

 しかしそれでもいいのです。

 ディアナにもまた、とっておきの魔法があるのですから。


 こつ、こつ、とブーツの音を響かせて少し歩いたところで、ディアナは廊下にたたずむ甲冑を見つけました。古びてさびた、しかし威厳ある姿で槍を持つその甲冑の影が、ランタンと月の光に長く伸びています。

 ディアナはその甲冑の前に立ち止まりました。

 そっと、呪文をつぶやきます。


「『ノクティア・ウィスモーア』」


 ぱしゃん。

 魚のおひれが水を打つような音が、甲冑のくろぐろとした影の中から聞こえました。

 そして、小さなささやき声を影が発します。

【小さき娘よ。いかがなされたか】

 ディアナは、この時ばかりは────一切驚くことも怖がることもせずに、そっとほほえんで口を開きました。

「昼間、ここをアルパカの男の子が通りませんでしたか? その子が持ってるぬいぐるみを探してるんです」



 『ノクティア・ウィスモーア』。ディアナだけが使える、ディアナだけの魔法です。

 その中身は、『ものや生き物にできた影と会話ができる』というもの。影とはいえその持ち主の意識を宿していますから、持ち主が見聞きしたものを問えばそのまま答えてくれます。

 これもラフィの魔法と一緒で、戦いには利用できません。影の声を聞く必要性は、誰かとの戦いにはないからです。

 でもこの魔法は、弟たちを抱えて『痛いこと』も『怖いこと』もなしに生き抜くためには必要でした。


 影に聞けば『大人たちを怒らせない方法』も、『事件を避ける回り道』も、全部教えてくれたから。

 生身のひとたちよりずっと、優しく正直に。



【そなたと同じくらいの齢のけものの子なら見たぞ】

 甲冑の影はそう言いました。

【北だ。ミスリム塔の方に、歩いておった】

 ミスリム塔。先ほど甲冑が言った通り、お城の北側にある尖塔のことです。

 用がないので、ディアナは未だそこに足を踏み入れたことはありませんでした。なぜミスリム塔にラフィが言ったのは定かではありませんが……「今日は家族会議があるんだ」なんて言っていた気もします。それと何か関係があったのかも。

「なるほど。ありがとうございます、甲冑さん。夜中なのに、起こしてしまって申し訳ありません」

【うむ。また何かあれば聞かれよ】

 甲冑はそれだけ言って、黙り込みました。ディアナはくるりと甲冑に背を向けます。

(ミスリム塔……行ったことないし、ちょっと怖いな。……でも、ラフィさまのために頑張らなくちゃ)

 ふるえる足を叱りつけると、ディアナは北に向かって廊下を進みます。

 金色の月が、こうこうと光っていました。





 ディアナは廊下をひたすら進み、ミスリム塔までやってきました。

 ミスリム塔は、月の見えない塔でした。月光が入ってこないため墨を流したように暗く、『サンライズ・パレット』の小鳥の光だけがぼんやりとその場を照らしています。


 ひそひそ、ひそひそ。


 ささやき声が聞こえてきました。

 ひとの声ではありません。

 影の声です。暗闇にひそむ無数の影の声を拾ってしまうのです。ディアナにとってこのささやき声は、何度も何度も聞いてきた声でした。

 夜の声というのは、恐ろしいものです。こちらを不安にさせようと揺さぶるような言葉ばかりをささやきます。さっきの甲冑と異なり形を持たない『見えないのに確かに存在する影』はなおさらでした。

(……力を抑え込まなきゃ。魔力に反応して、声も大きくなる)

 ディアナはぐ、と体に力を込めました。

 すう、とひそひそ声が少しだけ小さくなります。

 抑え込むのは疲れるけれど、短時間なら大丈夫。だって、何度もやってきたことですから。

 ディアナはごくりと唾を飲み込んで、そっと廊下へ足を踏み出しました。



 こつ、こつ、とブーツのかかとを鳴らす音と、いくぶんましになったささやき声だけが空気を揺らします。鳥かごから漏れる金色の光が、石畳の廊下を照らしました。

 廊下の両端には、規則正しく扉が並んでいます。一体これは何の部屋なのでしょう。使用人の部屋なのか、何かの作業部屋なのか、それとも────いいえ、考えない方がいいのかもしれません。

 今はとにかく、ラフィのぬいぐるみを探すこと。それだけが、ディアナに課された使命です。

 それだけを心の中で唱えながら先を進み。


────ようやく、ディアナはぽとりと廊下の真ん中に置き去りにされたぬいぐるみを見つけました。

 赤いリボンのシェパード。

 ポメロです。


(よかった! 見つかった……!)

 ディアナはぴんとしっぽを立てて、ポメロに駆け寄りました。


 これで帰れる!

 この暗くてこわい塔から、安心できる自分の部屋に!



 そう、ほんの一瞬だけ気がゆるんだのを。

 しかし影が見逃すことはありませんでした。



【あれが新入りかい?】

【ふうん、ずいぶんかわいい子だね】



 大きな耳を、影の声が打ちました。



「っ!!」

 ディアナは耳をぴんと立て、ポメロを素早く拾います。

(影の声が……! さっきは聞こえてなかったのに!)

 魔力が暴走しかけているのがわかりました。

 このままじゃ、影に飲み込まれてしまいます。

(今すぐ、魔力を抑え込まなきゃ……!)

 ディアナは再びぐっと力を込めました────が、それを影の声が突き破ります。


【おやおや、私たちの声が聞こえてるみたいだよ?】

【影聞きの能力があるのかい?】


 ざわざわ。

 声が波打ちます。


(やめて……!)

 ディアナは心の中で叫びました。ポメロと鳥かごを抱えて、廊下を走ります。

 一刻も早くこの塔を離れて、光のある場所へ行かなければ。影を打ち払う、月のある場所へ。あたたかい、自分のすみかへ。


【影聞きの一族なんて、ほとんど絶えたと思ってたけど】

【確か災いを呼ぶ、禁忌の一族じゃなかったかい?】


 ざわざわざわ。ざわざわざわ。

 ディアナは耳を伏せ、強く地を蹴ります。


 誰かが言いました。



【コヨーテ、とか】



 どっ、と影がわきたちました。

【そうかそうか、あの娘はコヨーテか】

【ちょうどいい。私たちと同じ、闇の生き物だ】

 早く早く早く!

 早く、ここから出なくっちゃ!



【仲間は、こちらに引き入れてしまえ】



 ざわざわざわざわざわざわざわざわざわっ!



 影たちが一斉に動き出しました。

 ランタンの光にもひるまず、その闇色の手をこちらに伸ばして引き込もうとします。


【おいで、おいで、禁忌の子】

【こっちで一緒に遊ぼう】

【その光を捨てて、こっちにおいで】


「ひっ……!」

 小さく悲鳴が漏れました。

 ディアナは手を伸ばして足首をつかもうとする手を力いっぱい蹴散らしました。気を抜けば沼のように沈んでしまいそうな廊下を、ただ走ります。かごの中の鳥が、ぴいぴい、と声を上げました。

 早く早く早く!

 早くここから逃げなくちゃ!


 ふと、焦るディアナの目が光を見つけました。

 それは、廊下に並ぶドアの隙間から差し込む明かりでした。中にひとがいるのか、光はかすかにうごめいています。


 あそこだ!

 あの部屋に逃げなくちゃ!


 ディアナはさらに速く走ります。

 ほとんど風のようにその部屋に飛び込みました。





 途端に目の前を照らす、ろうそくのかすかな光。

「はあ、はあ、はあ……」

 その光に安心し、ディアナは思わずへたりと床に座り込みました。

 しばし息を整えた後に顔を上げて、部屋を見回します。


 そこは、薄暗い小さな部屋でした。

 部屋を照らすのは、天井にいくつも魔法で浮かべられた白いろうそくたち。それぞれだいだい色の光を宿して、ぼんやりと部屋に光を与えています。

 床に敷かれるのは小さな血のしみで汚れたふしぎなけものの毛皮。真ん中に置かれたテーブルにはなんだか怖い絵のタロットカードや赤い瞳を中に浮かべる水晶玉がごちゃごちゃになって置かれています。本棚に入る分厚い古文書たちの背表紙には、『血統の記録』や『獣種の系統図』の文字がおどっていました。

 部屋はそれなりに掃除されていますが、ほこりっぽさがつんと鼻をつきます。壁紙や家具がところどころ破れて、何かけものが暴れたような爪痕がついていました。

 そして何より部屋の奥の壁にかけられ布をかけられ隠された────平たい、何かが目を引きました。


 ………ここは、一体どこなのでしょう?


 首をかしげながらも、とりあえず出なくちゃ、と立ちあがろうとした時。


「これは、小さなお嬢さん。ようこそ、『真実の間』へ」


 声をかけられ、ディアナは弾かれたように顔を上げました。


 占いの道具が雑多に散らばるテーブル越しに、一人の女の人がこちらを見下ろしていました。

 つややかな黒い髪を流し、顔をうすいヴェールでおおったクロヒョウの女の人です。夜空のように深い黒のワンピースをまとい、あちこちを宝石で飾って、長いしっぽをくゆらせていました。

 すらりとしなやかな姿にこの国では珍しい黒髪、そして何よりその上品さを感じさせる顔立ちははためから見ても美しいとしか言いようがありませんでした。


 ただ一つ────銀色にかがやく切れ長の目だけは、少しだけ怖かったけれど。


 ディアナは呆然と繰り返します。

「『真実の間』……?」

「ええ」

 彼女はうなずきました。にこ、と口紅でいろどったくちびるが弧を描き、優しい笑顔を浮かべます。

「ここはわたし、占い師ラミュールの部屋。『真実の間』よ」

「はあ……」

 ほほえむ女性ことラミュールに、困ったようにディアナは生返事を返しました。

 と、ふと、ああそうだ、ここではろうそく以外の光は持ち込み禁止よ、とラミュールは歌うようにつぶやいて、たおやかな手でそっと鳥かごを取り上げました。扉を開けて、小鳥を逃がしてしまいます。

「あ……」

「ここにいる間は、わたしの掟に従っていただけるかしら?」

 慌てて手を伸ばすも、小鳥には届きません。金色の光をふわりとまき散らして、小鳥は闇の中へと消えていきました。

(どうしよう……)

 焦りか、ついしっぽをきゅ、と握ってしまいます。

 これじゃ帰れない。あの暗い廊下を今度こそ何の光もなしに歩ける自信は、ディアナにはありません。

 不安げな顔をするディアナに、ラミュールが優しい声をかけました。

「あなたは、わたしが送ってあげるわ」

 そっと手を伸ばしてディアナの手を引くと、じゅうたんの上に立たせます。

 いいひとなのでしょうか。ディアナは疑い、とまどいながらもお礼を言いました。

「あ、ありがとうございます」

「いいえ。……そうだ、ここに来たのも何かの縁。一つ占っていかないかしら?」


 例えば、あなたの隠す『秘密』────とか、ね?


 ラミュールが笑います。深く、あやしく。

「っ………」

 ひゅ、とディアナの息が鳴りました。


 だめだ。

 このひとから、はなれなきゃ。


「い、いえ、結構です……あ、明日も早いですし、もう寝なきゃ」

 ディアナはそっと後ずさり、ラミュールの元から身を引こうとしました。しかし、ディアナの腕をぎゅっと掴んだその手が力強く引き込んできます。

 焦って腕をいくら振っても、その手が振りほどけることはありませんでした。

「こわがらないで。自分の『みにくい姿』を認めるのだって大事なこと。……そうでしょう?」

 ぐ、と腕を引いて、ラミュールはディアナを引き寄せます。

「きゃっ」

 倒れ込まんとする体をなんとか支えると、鼻が触れるほど近くにラミュールの笑顔がありました。深い、深い笑顔です。

 ぞわ、と背筋があわ立ちます。

 ディアナはいよいよ危険を感じ、身をよじりました。

 じわりと目の前が揺らぎます。

「い、いや……! はなして……っ!」

 訴えても、その手はかたく握られたまま。

 ディアナはふるえながら、一つの名前を呼びました。



「助けてください……ラフィさま……!」



 その時でした。



「『サンライズ・パレット』!」

 ふわり、と金色の光がひらめきました。



 ぱっ!



 金色にかがやく何かが、暗い部屋になだれこんできます。


 それは、いくつもの動物の形をした光でした。はばたく無数の蝶、小さなリスに軽やかなウサギ、しなやかなキツネに耳をぴんと立つ犬────そして、威風堂々としたアルパカの形をした、あたたかな光。


「っ………」

 さしものラミュールも思わず目を見開きました。

 その、ディアナの腕を掴む力が一瞬ゆるまった時。



「オレの召し使いに手ぇ出すんじゃねえよ!」



 ばちん!


 光と一緒に入り込んできた、小さくて、でもディアナより背の高い男の子────ラフィが、ラミュールの手をはたき落としました。


 ぎゅ、とディアナを自分の方に抱き寄せます。

「ラフィさま……」

 ディアナがふるえる声で名前をつぶやきました。

「……あらあら、これは、おぼっちゃま」

 目をみはって驚いた顔をしていたラミュールは、その表情をゆっくりと変えて笑顔を作りました。

「その子は『おぼっちゃまのもの』だったのねえ。わたしごときが話しかけちゃダメだったかしら」

「………」

 ディアナは怯えた目で、ラフィは瞳をきっと鋭くして、ラミュールをにらみます。ラミュールはほほえんだまま、すっと手を構えました。

「……まあ、いいわ。さっきも言ったし、二人ともお部屋に送ってあげる。また会いましょう、小さなお嬢さん」

「おい、待てよ────」

 意味深なことをしゃべってばかりのラミュールにしびれが切れたのか、ラフィが声を上げます。

 しかし。


 ぱちん!


 指をはじく音が響いて。


「きゃっ」

「うわっ」

 一瞬にしてディアナとラフィ、それからディアナがきつく握りしめたポメロは、ラフィの部屋の中へと戻っていました。

「転移魔法……くそ、あいつなんだったんだ」

 つかみ切れない霧のようなラミュールにばたばたとしっぽを振るラフィ。しかしふと隣を見て、ラフィはすぐさまラミュールのことを頭から取り払いました。


 ディアナは今にも泣きそうな、頼りない顔をしていたのです。

 涙はひとすじだって流れていないのに。


「大丈夫、か」

 ラフィはどう声をかければいいのかわからなくて、ただ一言そう問いました。

 ディアナが顔を弾かれたように上げます。揺れる瞳でラフィを見つめて、そして────


 ぎゅ。

 ラフィに、静かに抱きついてきました。


 ラフィの白い毛が、ぼぼぼ、と立ちます。

「ちょ、な、お前!? どうした!?」

 なんで、いきなりこんなことを! いくら何でも近すぎる! ラフィはそう言ってわめこうとしました。

 しかし、


「────こわかった、です」


 ぽろり、とこぼされた声に何も言えなくなりました。


 うずめた顔、ぎゅっとこちらの服を握る手、頼りない背中、巻かれたしっぽ、ふるえる体。

 そこにいるのはいつもの、『まじめで、一生懸命で、優しくて、何でもできる、ちょっとこわがりだけど頼れる召し使い』ではありませんでした。


 『恐怖に怯え、ただ誰かからの支えを求める、小さな一人の少女』でした。


「………」

 ラフィは考えました。

 今、ディアナにどうしてやるべきか。もし自分だったらどうしてほしいか。それを、静かに考えます。


 そして────そっと、その茶色い髪に手を乗せました。


「あの……こわがらなくて、大丈夫だから。オレが何回でも、お前を助けに、その……行くから、さ」


 ぴくり、と耳が揺れ動きました。

 ディアナから言葉が返ってくることはありません。しかし、ぎゅう、とさらに強く服を握りしめ、ディアナは顔をラフィに押し付けてうずめました。


 ほのかにかおる、ディアナの石けんと花の香りの奥の、草の香り。

 きっと今まで、外で頑張ってきた証。



 もしいつか『一人で頑張らなくていいんだよ』と彼女にあたたかい光を与えてあげられる存在ができるのなら。



 それは、オレがいい。




 ラフィは不器用にディアナの頭を撫でながら、静かに頭の中でそうつぶやきました。




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