『花の顔(かんばせ)を紡ぎたくて』
万華実夕
プロローグ:マルメロの記憶
マルメロの香りが、懐かしい。
今でも、あれは夢ではなかったと思う。
――五歳の頃、夜になると、わたしはよく、知らない世界にいた。
空は昼でも夜でもなく、トワイライトゾーンと呼ばれる時間の色をしていた。
あの世界にしか存在しない光が、空の端で揺れていて、
風の音にはかすかに鈴のような音が混じっていた。
そこには、一人の“ひと”がいた。
何者かも分からず、言葉も全部理解できなかったけど――
わたしはその人の隣が、安心でいっぱいだった。
彼はセラフという名前だった。
目が綺麗で、服も声も丁寧で、何より優しかった。
わたしのことを、いつも「お嬢様」と呼んでくれた。
ちいさな身体に、大きな言葉だったけれど、
呼ばれるたび胸がじんわり温かくなった。
まるで、未来のわたしまで、見通していたみたいに。
けれど彼はいつも、「お嬢様はまだ小さすぎます」と言って、わたしを帰してくれた。
血は吸わなかった。
そのかわりに、薔薇の庭園を手を引いて歩いてくれて、
花びらの砂糖菓子を紅茶に浮かべてくれた。
ときどき現れる魔物に出会うと、何も言わずにマントの中に入れて、
背中越しにそっと抱えて歩いてくれた。
夜中に目を覚ますと、母に怒鳴られた。
寝ている間の歯ぎしりがうるさいと、たたき起こされることもしょっちゅうだった。
母はお腹が大きくて、父の顔色ばかり気にしていた。
だからわたしは、人間の世界ではとても窮屈だった。
――でも、あの夢の中では、自由だった。
セラフは、帰り際に必ず果実をくれた。
少し固くて、甘い香りのする果物。名前は、マルメロ。
夢から覚めると、朝の光の中で、わたしは幼稚園に行く。
でも、夕方帰ってくると、玄関の棚にマルメロがひとつ、置いてある日があった。
林檎でも、蜜柑でもない。スーパーにも並ばない、不思議な果物。
――だから、わたしは信じていた。
セラフの世界は、本当にあるんだって。
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