春まではまだ遠く
もも
冬
今でも覚えている。
まだ完全に春になりきる前の、少しひんやりとした風が吹いた晴れの日曜日。
引っ越してきたばかりのお隣さんが、挨拶にやって来た。
「こんにちは」
お隣のお母さんは、私と同じ年ぐらいの男の子と手を繋いでいた。母親同士で立ち話をした後、庭でスコップを手にしたままボーッと突っ立っていた私に向かって、お隣のお母さんが言った。
「仲良くしてくれたら嬉しいな」
優しく微笑んでいる顔から視線を下ろす。
黒目の大きな男の子が口をぎゅっと引いて、こちらを見ていた。繋がれた手に力が入っているのがわかる。自分の母親に促されて「うえだはな、です」と私が名乗ると、何の反応もせずじっと黙ったままだった男の子の背中を彼のお母さんが優しく抱いた。
「……とおの、はるき、です」
心細そうな小さな声に反して、意思の強そうな目が真っ直ぐに私を見詰めている。
これが私と春ちゃんの出会いだった。
「春ちゃん」
「ん」
私は英語の辞書を渡すため、春ちゃんのいるクラスに来ていた。
春ちゃんと出会ってからもう十四年が経つ。
同じ小学校、同じ中学校を経て、今は同じ高校。さすがにクラスは違うけれど、行き帰りはいつも一緒だ。英語の用意を丸ごと忘れたという春ちゃんに、私は自分の用意一式を渡す。
「予習はやってあったの?」
「ん」
「ちなみに五十七ページの訳はノートに書いてあるからね」
授業の内容をまとめたノートを、辞書と一緒に春ちゃんの机に置いた。多分春ちゃんは新しく入手したゲームを夜遅くまでプレイしていただろうから、きっと予習はしていない。
「ん」
春ちゃんは頷いて、ノートを辞書の下に重ねた。
「植田はまた旦那さんのお世話かぁ。毎日大変だねぇ」
滝村がやって来て、春ちゃんの机に腰掛ける。
無口な春ちゃんのことを理解している、数少ない大切な友達だ。
私のことを春ちゃんの彼女だと思っているらしい。
違うんだけどな。
「遠野ぉ、せっかく持ってきてくれたんだから、せめてお礼ぐらいはちゃんと言っとけ」
「別にいいよ。小さい頃からこんな感じだし」
呆れ顔の滝村に、私は答える。聞こえている癖に聞こえていない顔をして、春ちゃんは英語の教科書をパラパラとめくっていた。キンコンと始業チャイムが鳴る。
「じゃあ春ちゃん、また放課後ね」
教室を出て行く私の背中に向かって、春ちゃんが「ん」と頷いたのを確認する。
春ちゃんとの待ち合わせ場所は、校庭を見渡せる場所にある校舎と校舎をつなぐ渡り廊下だ。
放課後、私はそこで春ちゃんを見付けても、すぐに声を掛けられない。
私を待っている振りをして、春ちゃんはいつも校庭をじっと見ている。
その視線の先にいる人を、私は知っている。
女子バレー部のOBで、私たちのひとつ上の学年。
面倒見の良い性格で、引退してからも後輩たちに請われて部の活動によく顔を出していてる。
来年の春に東京の大学に進むことが決まっているという史ちゃん先輩は、春ちゃんのイトコだ。
そして、春ちゃんの好きな人でもある。
放課後、タイミングが良ければ後輩たちのランニングを見守るその姿を見ることが出来る。だから春ちゃんはいつも渡り廊下の手摺りに手を掛けて、史ちゃん先輩がいないか目で探すのだ。たくさんのジャージ姿の生徒たちの中から史ちゃん先輩を見付けると、春ちゃんの身体はピタリと止まる。そこから、もう動かない。
そんな春ちゃんの姿を、私は隠れて見ている。
春ちゃんと私の間にある距離は、二メートルぐらいだ。
たった二メートルの距離を、私はいつまで経っても埋めることが出来ない。
私は渡り廊下には出ず、校舎にある廊下の窓から春ちゃんと同じように史ちゃん先輩を見る。
潔いショートカット。後輩に声を掛ける時の明るい笑顔。
私から見ても、史ちゃん先輩は可愛い。
ランニングが終わり、後輩達と共に史ちゃん先輩が体育館へ移動する。
その姿が完全に見えなくなってから、私は渡り廊下に出る。
「春ちゃん」
手すりに手を掛けたまま、体育館の方向を見ていた春ちゃんが、私の声に反応する。
「先生に呼び止められちゃって。遅くなってごめんね」
春ちゃんは首を横に振る。
「帰ろっか」
「ん」
ゆっくりとした足取りで、私たちは正門に向かう。
季節は冬。
指先が冷えるのは、風が冷たいせいだけではない。
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