その世界の名はまだ知らない。
葉月 彩夏
第1話 夏の午後
蝉が鳴きすぎて、空気が揺れている。
田舎町の夏は、いつもこうだ。音ばかりが多くて、でもどこか静かで、時間の感覚が曖昧になる。
太陽は自転車のサドルにまたがって、細くのびた農道をのんびり走っていた。
ハンドルを片手で軽く押さえながら、もう片方の手で汗をぬぐう。今日も三十度を超えている。
前かがみに坂道を下ると、草の匂いが一気に鼻をつく。
遠くの稲が風に揺れて、ザザァ……ザザァ……と波のような音をたてる。
雲は白くて重たく、空の半分は光で満ちていた。
「……帰るの、もったいないな」
呟いて、太陽はペダルから足を外した。
ガタン、と音を立ててブレーキをかけ、そのまま河原の手前で自転車を止める。
かつて子どもだった頃、毎日のように遊んだ場所だ。今ではもう、草に覆われてほとんど獣道みたいになっている。
それでも――なぜか今日は、そこに行ってみたいと思った。
誰もいない、虫と風と水音だけの世界に。
自転車を脇に倒し、草をかき分けて河原へ降りていく。
下に小さな川が流れていて、石が転がる音がする。苔むした岩の上にはトンボが止まっていた。
「なつかしい……」
ひとりごとを呟く。
川の流れは昔と変わらないのに、自分の背丈や、感じる匂いだけが違う気がした。
スニーカーのつま先で石をどかす。
水が透き通っていて、小さな魚が何匹も泳いでいる。
かつて、ここで虫を追いかけて転んで、膝をすりむいたことを思い出す。
自分がいた町なのに、もうどこか遠い風景に見える。
進学だの、将来だの、大人になっていく途中で、置き忘れてきたものがここにはある気がした。
そのとき――
一陣の風が吹いた。
背後の木々がざわざわと揺れて、草の匂いと、何か焦げたような匂いが混じった風が通り過ぎる。
太陽は振り返った。
木立の間から、風が抜けていった……はずだった。
でも、音が――消えていた。
蝉の声が、川の流れが、風の音さえも、ふっと止まった。
まるで世界ごと「一時停止」されたように、無音。
「……え?」
首を回す。草は動いている。川も流れている。なのに――音だけがない。
心臓の鼓動が耳に響く。
呼吸が浅くなる。胸がきしむ。
(やばい、なんか……変だ)
動こうとしたその瞬間。
空間が、音もなくひび割れた。
目の前がぐにゃりと歪む。
視界が引き裂かれ、足元が沈むような感覚に襲われる。
頭がくらくらする。膝が抜けた。
体が落ちる。地面が消える。音が戻らない。
(落ちてる?……どこに?)
太陽は息を吸えずに、ただ――深い、どこかへ――
気がついたときには、
彼は“知らない世界”の土の上で、泥にまみれて横たわっていた。
肌に触れる風が冷たい。
地面は濡れていた。鉄の匂いがする。遠くで「ドォン」と何かが爆ぜる音がした。
ゆっくりと顔を上げると――
対岸に、一人の少年が立っていた。
右目に包帯。左腕はなく、肩から空の袖が風に揺れている。
時代錯誤な軍服に、腰に刀を指していた。足元には火薬の匂い。
少年は太陽を睨んでいた。
その眼差しは、まるで――敵を見る目だった。
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