第5話 ショッピングモール...河川敷...


―――休日。


特に予定もなく、駅前のショッピングモールをぶらぶら歩いていた。

人間観察はホームズコンテストでは最上級のものだが、

まずはエドガー・アラン・ポーの『群衆の人』を、読もうか・・・?

休日の昼下がりのモールの入り口には沢山の人々が行き交っている。

エスカレーターの音、買い物袋を抱えた家族連れのざわめき。

エスカレーターの隙間から、靴の音がわずかに響いて、

松竹とか、帝国劇場とか、芸術座の観劇チケットみたいな光景に見える、

夜中のNHKの放送で見た、昭和の日本人の様々な姿を思い出す。

広々とした吹き抜けの天井からは、硝子張りの採光が降り注ぎ、

ふと視線を向けると、カフェのテラス席に座る人々がくつろいでいる。

赤信号にアクセル全開で踏み込むような明晰夢のごとき、

陽キャであり、リア充であり、爆発しろが組み合わされる(?)


ユーチューバーがわざわざ背景に、

知性的な本棚を映す“イタさ”と同じこと―――だ。


どこからともなく甘い香りが漂い、それはクレープ屋だ。

熱々の鉄板に生地を流し込み、ヘラを使ってゆっくりと円形に広げ、

焼き上がると、サクッとした外側と、

もちもちした内側の絶妙な食感が生まれる。

その上にフルーツやソースをのせ、くるりと折り畳み、

完成したクレープが紙の包みに収められる。

チョコバナナ、ストロベリーカスタード、ハム&チーズ・・。

店員が「お待たせしました!」と笑顔で渡し、

受け取った客は満足げに歩き出す。

それはその人がディズニーランド状態であるから、だ。

ディズニーランドというのは誘導や錯覚の王国である。

シンディ・シャーマンの記号。

バターが溶ける甘い香りと、

焼きたての生地の温かさがふわりと広がる。

通りすがりにふと立ち止まるカップル達。

頭の中はもうやる気のない、

風船のように思考停止した、くらげである(?)


紀元前一四世紀のヒッタイト王国の首都ハットゥサから、

膨大な粘土板のコレクションが発掘されて、

もう一度埋め直すべきだって気付いたような文明は、

歴史を繰り返す―――。


サバンナでライオンと眼が合ったくらいの、

歩道には、ショッピングバッグを手にした人々。

ファッションフロアでは、

最新のトレンドを集めたウィンドウディスプレイが並び、

店の奥では、試着室から、

「これ、どうかな?」というメスってるキャピってる甘い囁き。

(でもそれ、あなたの意見ですよね?)

その一方、書店の静かな空間では、

手に取った本をじっくり読んでいる人々が、

広辞苑だけじゃない、辞典は飛び道具になるって叫んでいて、

「これが俺のかめはめ波・・・!(?)」

時間を忘れたかのように立ち止まっている。

小さな子供が手を引かれて、アイスクリームを持ちながら、

嬉しそうに早く食べたいと駆けていく。


秘境駅の乗降客数をカウントするみたいに、

何処にでもありそうな休日の光景―――だ。

スマホを適当にいじりながら、視線の先にふと人影が映る。

ミルクティーベージュのシアートップスとアイボリーのワイドパンツ。

バニラとムスクが混ざった温かみのある香水のように、

柔らかく包み込む印象。

……ん? なんか見覚えがあるような……。


ショッピングモールの一角には、スパカモのグッズ専門店がある。

入り口には新作発売のポスターが貼られ、

限定品を求めるファン達がじわじわと集まっていて、

そこから、そこから・・・・・・。

全国で八十人ぐらいしかいないという、

臓器がすべて左右逆になっているような感覚にさせる人・・。

シアートップスが風を孕み、わずかに柔らかく揺れ、

アイボリーのワイドパンツの裾が、歩くたびに品よく広がり。


夜のしかめ面のような閉鎖する世界、覆されることのない宝石、

―――そのいくつもの折り重なった厚い弦楽合奏のような一瞬。


「……鹿子田先輩?」


思わず声をかけた瞬間、鹿子田先輩の肩がピクリと跳ねた瞬間、

―――視線は完全に迷子。

振り向いた顔は、普段のけだるげオーラがほぼ消え去っていて、

代わりにほんのり緊張と動揺の気配が見える―――。

そして何より、仕事モードではなく、完全にオフの顔で、

スパカモの新作クッションをしっかり抱えている。

隠すそぶりさえない、もう、完全に油断しきって―――いる。

ハッと気付いた瞬間の、この世の終わりな表情みたいな落差で、

御飯三杯おかわりできそうな気がした。

滑走路に並ぶ発艦準備中の戦闘機と、

誘導員の的確なハンドシグナルみたいなものだ。

この世の終わりみたいな顔をしながらもクッションは全力で守る、

―――雛鳥は私が守る、とイメージ上では、

ワンピースみたいな勢いで言っていた。

でも、停電のおしらせとか、断水のおしらせみたいに、

どうか、その存在を消そうとしないで(?)


エントロピーの大海、超絶主義者の栓をした瓶に封じ込められた、

暗黒の海に、投げ出されよ―――う・・って・・・言うから。

(でもそれ、あなたの意見ですよね?)


「……見なかったことに・・・してほしい・・・、

それは・・・・・・武士の情け・・・プラネタリウムの・・・、

ナレーション用の・・・ハンドマイクの調子・・・」


―――そうですよ、ほら、あれがオリオン座(?)


インスタント宝くじを削る時くらいの願いを込めて、

声が延びたり縮んだり、歪んだりする。

圧搾された息の塊。


「いや、見ましたって……!」


鹿子田先輩は僅かに顔を伏せながら、

クッションを抱く腕をきゅっと強くする。

どう見ても、めちゃくちゃ大事そうに扱っている。

多分、我慢できずに、包装紙から取り出したんだろうな、

会社の人も、知り合いもいない、それに休日、

そして、その感触を味わって―――いた。

何だか都会に突如現れたペンギンみたいな顔して、

いい気分で歩いていたんだろうな、とふっと思うが、

これについてはファー・イースト・リサーチ社の、

徹底的な追及が求められる(?)


「それに、鹿子田先輩の悪い噂なんて流しませんって」


そう言うと、鹿子田先輩は一瞬考えた後、


「・・・・・・そうだよね・・・・・・悪い噂・・・、

もう蔓延してるもんね・・・・・・チェーンメール間近・・・、

呪いのメール・・・藁人形・・・そして・・・人生終了・・・」


ネガティブロードでフルマラソンしているような人だ、彼女は(?)

でも、ボソッと、まあ、小日向君だったらいいか、と言った。

嫌われていないだけじゃなく、少しは信頼してもらっているらしい。

とはいえ、裸の王様みたいに、

もう自分をさらけだすところのフルオープンでいたような気もするが・・・・・・。


「……そのクッション、結構大きくないですか?」

「……バランスがいい・・・丸みとサイズ感が……、

こう……あざらし・・・みたいで・・・ちょうどいい・・・」


あざらしみたいでちょうどいいとは何なのか。

絶対零度近くに冷却された物質が電気抵抗をゼロにし、

磁場を跳ね除けながら浮遊する現象みたいに、

基準が一切分からず謎は深まるばかりだったが、

あざといぐらいに可愛いことを言ってくる。

しかし、この状況で問い詰めるのは無粋な気がした。

「買ったばかりなんですか?」

「……うん」

「結構気に入ってますか?」

「……うん」


―――妙に素直だ。

仕事の時よりも、言葉数が少ないのに、逆に本音が出ている感じがする。

なので、ロッカールームでのやりとりを再燃させてみる。


「先輩って、スパカモのグッズ集めてるんですね」

「……いや……」


なので、その否定がちょっと目立った。


「いや?」

「いや……その……あんまり集めてるとは……、

言いたくないし……言えない・・・」

言いたくないし言えない―――だが、

絵を描いていく過程を楽しむモーションペイントのように、

それは言っているのと同義だし、

そもそも、この時点で新作クッションをしっかり腕に抱えている以上、

もう言わなくても明らかなんだけど・・。


「いや、もう分かってますよ」

「……どうして……」

「いや、だって、こんな風にクッション持ってる先輩、レアですよ」

「……レア……?」

その言葉に、鹿子田先輩が微妙な顔をする。

どうやらレアキャラ扱いされることに少し抵抗があるらしい。

レアと言えば、この前ステテコ姿で路上を歩いている人がいた(?)


「鹿子田先輩、普段と違いすぎますよ。

会社だともうちょっとこう、冷静というか・・・・・・」

「・・・・・・仕事は仕事・・・コーラを飲んだら・・・、

ゲップが出るくらい・・・確実・・・」


ジョジョだった。

ジョジョは鹿子田先輩でも知っている(?)


「なるほど……じゃあこれは完全にプライベートモード?」

「……プライベート……モード……それは・・・、

ソドムヤゴモラの・・・地のことを・・・考える・・・分裂症的愛憎・・・、

頽廃芸術の・・・エルヴィラ写真館・・・」


―――ああ、芳香性幻想が廻―――る・・(?)


自分でそう言いながら、また少し顔を伏せる鹿子田先輩。

そんなつもりはないけど、いじめいているような不思議な気分になる。

一応はやっぱり、職場の人間にプライベートを見られるのが、

中々の恥ずかしさらしい。

脳内でフィボナッチ数列を展開しているような人なのに、

だがしかし、高校生が家族と一緒に外食しているところを、

同級生に目撃される、というようなシチュエーションなのかも・・。

別に鹿子田先輩の感性が、高校生と揶揄しているわけではないが・・・・・・。


「鹿子田先輩、休日はどんな感じなんですか?

やっぱり東京湾工場クルーズみたいに、こういうグッズ見たり?」

「……いや……」

「いや?」

「いや……その……、言いたくない……」


言いたくないのに妙に動揺しているあたり、

もうほぼ答えになってるのでは……?


「でも、休日にこうして偶然会うの、なんか新鮮ですね」

「……そう?・・・私はたまに会社の人と会う・・・走り幅跳びしたり・・・、

障害物競走・・・されたりするけど・・・」


―――やめてやめてやめて、お願いだからやめて(?)


「会社だと何かと忙しいし、こういうゆるい感じの先輩って珍しいです」

「……珍しい……?」


鹿子田先輩は一瞬、少し考えるような表情を見せる。

そして、モールのガラスに映る自分をちらっと確認すると、

「……確かに……そうだね・・・・・・」と、ぼそっと呟いた。

そのまましばらく沈黙が流れる。

だが、気まずいわけではない。ただ、奇妙に落ち着いた空気で、

割れたピンポン玉のような、ぎくしゃくとしたリズムを、

たまらないと思え―――て。

何だか、それが何となく、いいような気が―――して・・。

「……このまま・・・ご飯でも食べる・・・?」


突然の提案。

鹿子田先輩がそんなことを言うとは思っていなかったので、

少し驚いてしまった。

「え? いいんですか?」

「……もう見られたし……今さら……、

それに口止め料にも・・・・・・なる・・・靴跡スタンプとか・・・、

位置確認アプリなんか・・・ない・・・インプットの時間・・」


―――そしてこれからアウトプットの時間(?)


鹿子田先輩は小さく溜息をつき、クッションを抱え直す。

完全に敗北を認めたらしい。いや、勝ち負けではないんだけど。

ただ、ここまで見られたならともう開き直るモードに入ったらしい。

こうして、俺は休日の鹿子田先輩と、

予想外のランチに突入することになった。



モール内のレストラン街を少し歩き、

和食、洋食、カジュアルダイニングまで、

客達が楽しげな話を交わしながら食事をしている。

何処に入るか迷いながらも、空腹というわけではないので、

人が食事をするということについてぼんやり考えてしまう。

ふと目に留まったのは、落ち着いた雰囲気のカフェ。

雰囲気が良さそうだったので、そのカフェへ入ることにした。

硝子張りの入口の向こうには、穏やかな照明が灯り、

店内のシックな内装が広がっている。

木目調のテーブル、壁には抽象的なアートが飾られ、

控えめなジャズが流れている。レジの横ではバリスタが、

手際よくコーヒーを淹れ、カップから立ち上る蒸気がちらりと見えた。

窓際のテーブル席に腰を下ろし、少し身体を落ち着ける。

硝子の外には先程までのようにモール内を行き交う人々の姿があり、

遠くには店の看板が灯っている。

フロアを歩く足音や、

店員の穏やかないらっしゃいませという声が、心地よく混ざり合う。

目の前に置かれたメニューを開くと、

優雅なタイポグラフィで並べられたコーヒーや紅茶の種類、

デザートの写真が目に飛び込んでくる。

そういえば先程聞いたが、鹿子田先輩はカフェ探索が趣味らしい。

そういえば『スパカモ姉さん』も、そんなことを書いていたような気がする。

とりたてて隠れ家的なところを探すのが趣味だ、と。


過ぎ去ってゆく時に、口を開く預言者。

沈黙恐怖症とも―――言う。


「何にします?」

「……迷う……コンビニのもの・・・だけで・・・、

フルーツパフェ・・・を・・・作れるか・・・」


よし、分かった、と小日向宇宙警備隊員は思った。

日本語が分からないぞ、と意識を持った火星と戦うのだった(?)


「まあ、カフェだし軽めでもいいんじゃないですか?」

「……いや……どれも……よさそう……ほうほう・・・、

耐えがたい・・・神経線維の刺は・・・樹枝状態の稲妻に変わる・・・」


―――ほうほう(?)


優柔不断発動。

メニューのページをじっと見つめる鹿子田先輩は、

完全に決められないモードに入っている。

仕事の場面では冷静に判断するのに、

こういうところでは異様に悩むタイプらしい。

何だか、年上だけど、

孫を可愛がっているお爺さんのような気持ちになり、

さらにこういう状況では、

スーパーなどで売っている栽培されたキノコを、

観察したくなること請け合いだろう・・・。



―――あのベニテングをモチーフにしたきのこ(?)



「サンドイッチとか、パスタとかありますよ」

「……どれもいい……」

「じゃあ、適当に決めちゃいます?」

「……でも……決められない……今日の夜ベッドの上で・・・、

のたうち回る未来が確定する・・・やめろ・・・、

でもゲシュタルト崩壊した・・・未来に君はいる・・・スライム化現象・・・」


―――鹿子田先輩よ、あなたはナレーションをしているのか(?)


「どれが一番気になりました?」

「……えっと……クロックムッシュ……でも……パスタも……」

「いやいや、もうそれ食べたいものバレバレじゃないですか。」

「……でも……比べると……どっちも……」


結局、俺が店員を呼ぶ前に、じわじわと先輩の悩みが続くことになる。

だが、最終的には店員の『ご注文お決まりですか?』の言葉で強制決定。

迷惑をかけるのは、許されない。

(でもそれ、あなたの意見ですよね?)

灼熱の炉から引き出された赤く輝く鉄塊を、

ハンマーで正確に叩きながら成形していくようなものだった。


「……クロックムッシュ……」

「ほら、ちゃんと決まりましたね」

「……決めさせられた……アメリア・イアハートは・・・飛ぶ・・・、

成層圏をロケットパンチして・・・爆発しそうな・・・超新星・・・」


―――そして宇宙は終わり、そしてまた始まるのだ(?)


「いやいや、自分で言いましたよね?」

結局、俺は普通にパスタを注文。

先輩は、わずかに考え込むような顔をしながら、

手元のクッションを指先でなぞっている。


料理が運ばれてくる間、ゆるく雑談が続く。

大混乱スマッシュブラザーズみたいな会話だけど、飽きない。

だが、鹿子田先輩は何となく視線をテーブルへ向けて、

落ち着かない様子だ。

こっちはリラックスしていて、少し申し訳ない感じがする。


「……でも休日に・・・小日向君と・・・会うなんて……変な感じ……、

坂道へ転がっていったアイスクリーム・・・痩せた爪・・・、

肌の陰り・・・そして徹夜明けの疲労・・・」


―――あのすみません、疲れてませんか(?)


「まあ、確かに。職場じゃないですしね」

「……会社だと……ちゃんとしてる……」

「じゃあ、今はちゃんとしてないモード?」

「……うん……」

あっさり認めた。

ロッカールームでのことは、あえて指摘しなかった。

おうおうおう、と心の中の眠れる獅子ならぬオットセイが、

鳴き出しそうになるが、

今日は、女性誌の豪華な付録みたいなものと考えることにした。

鹿子田先輩は少し考えながら、静かに言葉を続ける。

音の隙間に垣間見えた―――心の秤・・・・・・。


「……会社だと、仕事だから……それで話すけど……休日は……違う……」

「そりゃそうですよね」

「……だから、こういうの……慣れない……氷の上に・・・、

カルピスの原液と・・・水を注いで・・・マドラーでぐるぐると・・・、

掻き混ぜる・・・陶芸家になりたい・・・」


―――ぼくのなつやすみ(?)


何となく、先輩の休日モードが、

まだ完全にオープンになりきっていないことが分かった。

沖縄県石垣島ではペットとして飼育されていたグリーンイグアナが、

遺棄されて野良イグアナが大量に繁殖しているようなオープンさだ(?)

しかし、そんな会話をしているうちに、注文した料理が運ばれてくる。


「……わ、すごい……」


視線が、目の前のクロックムッシュに集中する。

表面がこんがり焼かれたチーズの香りがふわりと広がると、

鹿子田先輩の反応が明らかに変わった。

ミシュランも評価するより、全米が泣くより、評価できる気がした。


「あれ、先輩って結構食べ物に感動するタイプですか?」

「……美味しそう……」

「そんなに期待してるなら、もう間違いなく美味しいですよ」

「……うん・・・ハラルト・シュテュンプケの・・・『鼻行類』・・・

の楽しそうなイラスト・・・昨日河川敷で見かけた・・・」


―――正確な時間と場所、教えてもらっていいですか(?)


先輩は静かにフォークを持ち、慎重に一口――。

そういえば食べている姿が一番セクシーだって言う人がいたけど・・。

「……美味しい……」


何かを悟ったように呟く。

いつもより言葉が少なめなのは、完全に味わいに集中している証拠だった。

郵便差出箱四号。青い速達専用みたいに、

世界はその瞬間をポケモンGOにしていた。


「……このカフェ、いいかも……」

「お、気に入ったんですね」

「……うん……およげたいやきくんの顔を・・・思い出すように・・・、

歌が流れて・・・ズッチャズッチャ・・・死んだ・・・」


―――鹿子田先輩、い・き・て(?)


「じゃあ、次もここでランチします?」

「……それは……どうかな……ロンリーソロボッチ・・・、

プレイヤー・・・には・・・難攻不落の問い掛け・・・」


―――夜に駆ける、群青、たぶん、アイドル、怪物、あの夢をなぞって(?)


「いやいや、気に入ったんじゃないですか」

「……でも……今日は……特別……」

特別――その言葉に、俺は少しだけ考え込んだ。

仕事の話が一切ない休日のランチ。

普段の職場とは違う雰囲気。

現実との落差が生じる禁じ手かつ魅惑の甘噛みのような時間、

鹿子田先輩にとって特別なことになっているのだろう―――か。

そんなことを思いながら、俺もパスタを口に運ぶ。

こうして、妙に落ち着いた空気の中で、

鹿子田先輩との休日ランチは進んでいった。



カフェでの食事を終えた頃、昼下がりの陽射しが少し傾き始めていた。

モールの喧騒から離れ、ふと静かな場所を求めたくなった瞬間――。

バーサーカー・ソウル、彼女のターンが終わらない。

「……このまま、少し歩く?」

鹿子田先輩がぽつりとそう言った。

予想外の提案に、俺は一瞬戸惑ったが、

確かに人混みの中をずっと歩き続けるのも少し疲れていた。

「じゃあ、川沿いでも行きますか?」

「……うん」


さりげなく承諾し、

モールを後にし、歩く――歩いて、橋へと向かう。

モールを抜け、しばらく大通り沿いを歩く。

信号が切り替わるとピピピピという電子音が響き、

歩行者が動き出す。

それは粘着いた繊維質のダーツ盤の真ん中に突き刺さる警報。

自転車のベルがチリンと鳴り、会社員風の人がひょいと回避する。

遠くの交差点からはバスのエンジン音と、

タクシーが車を呼ぶクラクション。


「スマート交差点では自動運転車が滑らかに流れ、

空中にはドローンが行き交うらしいですね・・・」

「フェイク・・・ニュース・・・」

と、鹿子田先輩はとある人物の真似をして言った。

芽生えた不快感を、ドライシェリーですすぎながしたいような気分(?)


西の空はまだ薄明るいが、

ビルの間に挟まれた細い道では既に影が長く伸び始め、

ネオンの看板がぼんやりと灯り始めている。

コンビニやカフェの光が少しずつ存在感を増している。

遠くの高層ビルの硝子に夕陽が反射し、

黄金色の光がちらちらと揺れる。

電灯がついたばかりで、まだ完全には馴染んでいない、

オレンジの輝きが舗道を染める。

人の多い歩道を抜けると、ゆるやかなカーブを描く道が現れた。

その先には――橋。

それは水圧に耐える特殊なタンパク質構造、

外骨格を持つ巨大な甲殻類のゆったりとした動きを想起させた。


「この橋、結構長いですね」


川の流れが静かに音を立てる。

夕陽の光が水面に反射し、揺れる光の粒がさざ波とともに流れていく。


「……渡るのに・・・時間・・・かかる・・・サンバイザー三十個・・・、

装着してみたくなる・・・動揺が芽生え・・・日毎少しずつ膨らんでゆく・・・」


―――さんばあああああすとおおおおお(?)


鳥の鳴き声が遠くから響き、

時々、翼を広げて橋の上を横切る影が見え、

ダヴィンチのモナリザを思わせる不可思議な微笑をする鹿子田先輩。


「まあ、のんびり歩くにはちょうどいいかも知れませんね」


歩き始めると、わずかに吹き抜ける風が心地よい。

下を見れば、川の水面が陽の光を反射してきらめいている。

時折、自転車が脇を通り過ぎ、対岸へと向かう人々の姿が見え、

恋人同士が欄干にもたれて話し込む声が微かに流れてくる。

月日は夢のように過ぎ、どんな酩酊を伴う春の夜の夢よりも、

一層凄艶に過ぎる。

橋の中央に差しかかった頃、俺はふと鹿子田先輩に尋ねた。

カタパルトから打ち出される機体、

蒸気が一瞬舞い上がるランチャーシステムみたいに。


「こういう場所、あんまり来ないんですか?」

「……あんまり……それは完璧な密室・・・そして単純な感情・・・、

単純な言葉・・・ヘルプ・ミー・・・バックビート・・・、

それはよくある・・・ダークなシューティング・スター・・・」


―――ああ、スターバックスコーヒージャパンの薫り(?)


ふと風が吹き、鹿子田先輩の髪が少し揺れ、うなじが見える。

「じゃあ、今日は珍しい日ですね」

「……そう……」

何気ない会話が続く。


バイタルサインや、動作から導き出された、

最適な回路、世界は美しい、数字が美しい、計算が美しい、

方程式が美しい、光の縞をふたたび綾に染め直すぐらいわけはない、

だが、橋の上で立ち止まった先輩は、

川の流れをぼんやりと見つめていた。

あれは夢、これは幻想。

手をすりぬけてい―――く・・。

イージー・カム・イージー・ゴー。


「……水、ずっと流れてる」

「まあ、川ですからね」

「……変わらないようで、変わってる……」

「……なんか詩的なこと言いました?」

「……?」

「いや、いつもより感慨深い感じです」


先輩はただ静かに視線を水面へ向けたまま、少し考えるような表情をしていた。

だが、すぐに歩き出し、再び橋を渡ることになった。


橋を渡り切った先には、広々とした河川敷が広がっていた。

大きな土手の斜面には、自転車を走らせる人や、ジョギングをする人の姿。

芝生の上では、小さな子どもたちが遊び、穏やかな休日の空気が流れている。

「ここ、静かですね」

「……風が、気持ちいい……網膜が融けて・・・、

銀幕を貼った・・・プレハラートの上・・・」


―――ソシテ眼ノ中ニ、寄生虫ガ侵蝕スル(?)


ゆっくりと歩きながら河川敷のベンチへと向かう。

先程まで手に持っていたクッションを、鹿子田先輩はふわりとベンチの上に置く。

そして、そのまま腰を下ろすと、無言で少し遠くを眺める。

さりげない接触や交流、他愛のない会話がいまになって、

大きな顔をして―――くる。


「……都会の喧騒と、全然違う」

「確かに、さっきまでモールにいましたしね」

「……こっちのほうが、落ち着くかも……」

そのまま、しばらく言葉もなく、ただ風の音と川の流れる音が聞こえる。

水面には、時折小さな波紋が広がり、遠くには釣りをしている人の姿も見える。

自転車がゆっくりと通り過ぎ、

ランニングをしている人がペースを整えながら走っていく。

川の向こう側には広場があり、

子供たちが駆け回る姿がぼんやりと見える。

道路を挟んだビルの窓からは、

誰かがカーテンを閉める動きが見えて、生活の気配が感じられる。


「……こういう休日も・・・悪くない・・・」

「意外と気に入りました?」

「……うん・・・でも小日向君の・・・パソコンの・・・、

秘蔵フォルダにしまってある・・・スイカと・・・、

ガーリックバターの・・・邪魔をしてしまった・・・(?)」


―――オーイエー(?)


鹿子田先輩は手元のクッションを指先でなぞりながら、穏やかな表情を浮かべる。

その姿は、いつも会社で見る鹿子田先輩とは、まるで別人のようだった。

瞳は無数の微細なかすり傷を持った鋼鉄の眩い断面、

角膜が、虹彩が―――。


「何だか、いい一日だった気がしてきます・・・」

しばらく静かな時間が続いた後、陽射しは少し傾き始めていた。

「……そろそろ・・・戻る?」

「ですね」

ベンチから立ち上がり、来た道を戻ることに。

橋を再び渡りながら、俺はふと考える。

こういう時間は、特別なものなのかも知れない。

解放感と虚脱感の入り混じった夏の終わりの感覚・・。

普段、社内では仕事を中心に話すことが多く、

休日にこうして何気ない時間を過ごすことなんて、中々ない。

鹿子田先輩も、それを感じているのか、

静かに歩きながら表情はどこか穏やかだった。

「……また、こういうの……あるかな……、

アーダルベルト・シュティフターの・・・水晶のような魅惑・・・、

デカルトが・・・はじめて使った・・・X・・・」

「え?」

「……いや……何でもない……」

鹿子田先輩はふと視線を川へと向ける。

水面は相変わらず静かに流れ、

その風景の中で、何となく先輩の言葉の意味を考えた。

考え―――いや、やっぱりあれはちょっと分からないわ、

あれは無理だわ、リームーだわ、リームー(?)


「・・・・・・!」


駅に向かう途中、一瞬だけ鹿子田先輩が振り向いた。

微笑みかけると、顔を少し赤くしながら肯いた。

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