時の淀みの浄化と解放

 夕闇が迫る講義棟の廊下を、陽菜乃、泰河、遼の三人が足音を殺して歩いていく。晴音を救うために、再び七限目の授業に潜入する作戦だった。


「うう……また来ちゃった……」


 泰河が情けない声を上げながら、ガクガクと膝を震わせている。


「泰河、大丈夫? 顔が真っ青よ」


「大丈夫じゃないに決まってるだろ! 時間がループするとか、もう意味わからないし! 俺、普通の大学生活がしたいんだよ!」


「でも、晴音を助けなきゃ」


 陽菜乃の言葉に、泰河はぎゅっと拳を握った。怖がりだけど、友だち思いな性格が顔を出す。


「わ、わかってるよ……晴音のために来るって決めたんだもんな」


「さっきの晴音は、六時間のループに入っているようだった。このままだと、晴音の存在自体が現実世界から切り離される可能性が高い」


 遼が冷静に分析する。


「切り離されるって……」


「簡単に言うと、消えてしまうということだね」


 泰河の顔が更に青ざめた。


「消える!? それ、死ぬってこと!?」


「そんなのだめ! 絶対に晴音を助ける。そのためにも、永田教授とちゃんと話をしなきゃ」


 三〇二教室の前に立ったとき、既に室内には明かりが灯っていた。窓から覗くと、あの初老の教授が黒板に向かってなにかを書いている。


「時間論概論……また同じ授業か」


「よし、行くわよ」


 教室の扉を開けた瞬間、永田が振り返った。まるで彼らを待っていたかのような、穏やかな笑顔だった。


『ああ、また来てくれましたね』


 教授の視線が遼に向けられる。


『どうぞ、お座りください。今日は特別に大切な講義を行います』


 三人は互いに目配せしながら、教室の後方に座った。永田は満足そうに頷くと、黒板に向き直る。


『時間とは、なんでしょうか』


 チョークが黒板に触れる音だけが、静寂の中に響く。


『時間は流れると皆さんは思っているでしょう。しかし、それは錯覚かもしれません。時間は実は……止めることができるのです』


 陽菜乃が立ち上がった。


「永田教授」


 永田の手が止まる。ゆっくりと振り返った永田の目は、驚きに満ちていた。


『私の名前を……どうして知っているのですか?』


「あなたが三十年前に事故で亡くなった、永田修一郎教授だからです」


 教室の空気が張り詰める。透けた学生たちがざわめき始め、泰河は恐怖で震え上がっている。

 永田は静かに黒板にチョークを置いた。


『そうです……私は死んでいる。しかし、研究は続けなければならない。時間の本質を解明するために』


「でも、学生たちを巻き込んではいけません」


 陽菜乃の言葉に、永田の表情が曇る。


『巻き込む? 違います。彼らは私の研究に協力してくれているのです。時間のループを体験することで、時間の真理に近づけるのです』


「それは違います!」


 陽菜乃の声が教室に響く。


「時間は止めるものじゃない。流れるから意味がある。変化するから成長できる。あなたは学生たちから、その大切な時間を奪っているんです!」


 永田の顔に困惑の色が浮かぶ。


『しかし……私の研究は未完成のまま……あと少しで時間の秘密を……』


「研究への情熱はわかります」


 陽菜乃の声が優しくなる。


「でも、本当の学びは時を止めることじゃない。時と共に成長し、変化していくことです。あなたが愛した学生たちを、時の牢獄に閉じ込めないでください」


 永田の目に涙が浮かんだ。


『私は……学生たちを愛していました。彼らの成長を見るのが、なによりの喜びでした。しかし、事故で死んでしまった。研究も、学生たちとの時間も、全て失ってしまった』


「だからって、学生たちの時間まで止めちゃダメです。俺、怖いのは苦手だけど……でも、晴音が消えちゃうのはもっと嫌だ!」


 泰河が震え声で言った。

 遼も立ち上がる。その手には紅葉がプリントアウトした永田の研究ノートが握られていた。


「教授、あなたの研究ノートを拝見しました。時間の本質に関する素晴らしい理論でした。しかし、それは生きている者が発展させるべきものです」


 永田が膝を震わせる。


『しかし……私がいなくなれば、あの研究は……』


「誰かが引き継ぎます」


 陽菜乃が歩み寄る。


「それが時間の流れです。あなたの想いは、きっと未来の研究者に受け継がれる。でも、そのためには学生たちを解放しなければ」


 陽菜乃の呼びかけに、永田がはっとした表情で視線を泳がせた。


「教授が本当に愛しているのは研究ですか? それとも学生ですか?」


 永田の目が大きく見開かれ、唇がわなわなと震えている。


「学生たちを時の牢獄に閉じ込めることが、彼らのためになると思いますか?」


『それは……』


「晴音は今、同じ時間を何度も繰り返している。成長も、変化も、新しい発見もない。それって、本当の学びと言えますか?」


 陽菜乃の問いかけに永田の体が震え始める。


『私は……間違っていたのですね。学びとは変化すること。成長すること。私は彼らから、その機会を奪っていた』


 陽菜乃が優しく鈴を鳴らす。清らかな音色が教室に響き渡った。


『ありがとう……若い研究者よ』


 永田が陽菜乃に向かって微笑む。


『君たちのような学生がいる限り、学問の未来は明るい』


 鈴の音に合わせて、教室の空気が変化し始める。透けていた学生たちの姿が、一人、また一人と消えていく。


『みんな……自由になりなさい』


 永田の姿も薄くなり始めた。


『時間と共に歩みなさい。それが、本当の学びの道です』


 最後の鈴の音が響いたとき、永田は安らかな笑顔を浮かべて消えていった。教室の異常な静寂が破れ、普通の夜の静けさが戻ってくる。座席に残っている古市麻衣のほか数名が崩れるように床に倒れ、泰河と遼が駆け寄って助け起こした。


「終わった……」


 泰河がへたり込む。


「教授、成仏したのね」


 陽菜乃が鈴をお守り袋にしまいながら呟いた。



*****



 翌朝、陽菜乃の携帯が鳴り響いた。


「陽菜乃!」


 電話の向こうで晴音の声が弾んでいる。


「時間が戻った! ちゃんと今日になってる!」


「よかった……」


 陽菜乃がほっと息をつく。


「ありがとう! 陽菜乃のおかげだよ!」


「みんなのおかげよ」


 その日の午後、カレイドスコープの部室に集まった一同は、事件の報告を行っていた。


「古市麻衣さんからも連絡があったよ」


 真澄が報告する。


「彼女も正常な時間の流れに戻ったそうだ」


「よかった〜」


 晴音がほっと胸を撫で下ろす。


「同じ時間を繰り返すって、最初は面白そうだと思ったけど……実際は怖かった」


「当たり前だろ! 俺なんて、晴音が消えちゃうかもって聞いたとき、心臓止まるかと思ったぞ!」


 泰河が大きく頷きながら涙ぐんだ。

 千沙が遼のデータを見ながら分析を始めた。


「時間の歪みに関する都市伝説は他にもあるけど、実際に体験したケースは貴重ね」


「永田教授の研究ノート、大学の図書館に寄贈することになったよ。未来の研究者たちが、教授の想いを受け継ぐといいね」



*****



 夕方、部室でくつろぐメンバーたち。

 真澄が静かに呟いた。


「永田教授も、きっと今は安らかに眠っているだろうね」


 窓の外では、夕日が大学のキャンパスを金色に染めている。時間は確実に流れ、学生たちの日常は続いていく。


 三〇二教室にも、もう異常な現象は起きない。ただ普通の教室として、これからも多くの学生たちの学びの場となるのだろう。


 陽菜乃がお守り袋の銀の鈴に触れる。微かに響く音色が、平和な日常の大切さを教えてくれているようだった。


「今度はどんな依頼が来るかしら」


「今度はもう少し怖くないやつがいいな……」


 泰河の呟きに、みんなが笑い出す。


 時間の大切さを学んだ七限目の授業は、こうして静かに幕を閉じた。そして、カレイドスコープの日常は、また新しい不思議へと向かって歩み続けるのだった。




-☆-★- To be continued -★-☆-

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