第6章 リアルの扉
第18話 記憶の出口
視界がゆっくりと色を取り戻していく。光に包まれた共有領域の余韻が薄れていき、ハルは静かに目を開けた。
──そこは、ログハウスの前だった。
木漏れ日が揺れる坂道。柔らかい草の匂い。見慣れた景色が、やけに懐かしく感じられる。周囲には仲間たちの姿があった。
リイナが小さく伸びをしている。クロエは腕を組み、あたりを警戒するふりをしているが、その目はどこかぼんやりしていた。セリナとガルドも、軽く笑い合いながら転送の余韻を払っている。
「ここまで来れたんだな……」
ハルが小さく呟くと、クラウディアがすぐ隣に立っていた。彼女の視線は、ログハウスのドアに向けられていた。
ジェミニの力によって、全員は安全領域──つまりこのログハウス周辺に無事転送されたらしい。
リイナが全員を見渡して言った。
「じゃあ、一旦ここで解散ってことで。ログアウトする人は、各自で準備してね。おつかれさま」
軽く手を振り、メンバーたちはそれぞれのログアウトメニューを開いていく。ログアウトの瞬間、身体が光に包まれて霧のように消える。次々と消えていく仲間たちの姿を見送りながら、ハルはログハウスのドアノブに手をかけた。
「クラウディア、お前は……?」
「……一緒に、入ってもいい?」
「もちろん」
二人は並んでログハウスに入った。木の床が小さく軋む音。マウと過ごした、あの時間がふいに胸をよぎった。
ログハウスの中は、ほとんど変わっていなかった。小さなランプが柔らかい光を投げかけ、テーブルにはマウと創作したノートの仮想モデルが置かれている。その隣に、紅茶のカップ──もちろん、今は空だ。
「……落ち着くな、ここ」
ハルが椅子に腰かけながら言うと、クラウディアもそっと対面の椅子に座った。彼女の指先がテーブルの縁をなぞる。
「初めて来た場所なのに、ね。不思議だよね」
「そうか? 俺には、いつもの場所って感じだけど」
「うん、そう。……“君にとってのいつもの場所”ってこと」
クラウディアはどこか懐かしむように、部屋の隅々を見回していた。ふと立ち上がり、壁にかけられたポスターを見て口元を綻ばせる。
「……あ、これ。昔、流行ってたやつだ。懐かしいな」
「よく知ってるな。もう何年も前のゲームのやつだろ」
「……たぶん、どこかで見たんだと思う」
その横顔に、ハルは何か引っかかるものを感じた。だが、言葉にはしなかった。たぶん──まだ、してはいけない気がしたから。
「そろそろ……戻らないとな」
「うん」
二人はほぼ同時にログアウトメニューを展開した。カウントダウンが始まる。
その間、クラウディアがぽつりと呟いた。
「ここって……マウとよく来てたんだよね?」
「ああ。たぶん、あいつにとっては“家”みたいなものだったと思う」
「うん……そんな気がする。あの子、どこか懐かしい匂いがするから」
ハルが目を見開いたとき、もうクラウディアはログアウトの光に包まれていた。残されたログハウスに、一瞬だけ、静かなぬくもりが残った。そして目を閉じる直前、ログハウスの木の壁が、かすかに軋んだような気がした。
──ぴ、と小さな電子音が鳴る。
そして、世界が切り替わる。
***
ほんの一瞬、意識が暗転したかと思うと、次の瞬間には現実の部屋の天井が視界に広がっていた。静寂。時計の針の進む音だけが、部屋の空気を切り裂いていた。
ハルはゆっくりと起き上がった。布団の端が少しだけ冷たく感じる。思い出の余韻が、まだ体温のように指先に残っていた。
「……戻ってきた、か」
口にした言葉は、自分に向けての確認だった。
壁際に置かれたディスプレイには、仮想世界のログアウト完了通知が静かに表示されている。
ハルはしばらく無言のまま、ぼんやりと画面を見つめていた。
マウの最後の言葉。クラウディアの笑顔。そして、あの“感情”──
何かを、忘れていた気がする。
いや、違う。思い出しかけていた“何か”が、すんでのところで手から滑り落ちたような感覚。
「……探そう」
ハルは椅子を引き寄せ、端末を起動した。
そこには、自分が過去に使っていた創作サイトやSNSのアカウントが、いくつも並んでいた。
中にはもうサービス終了したものもある。
けれど、どこかに──何かがある気がした。
画面にずらりと並ぶ、古びたアイコン群。
ハルはその中から、数年前に使っていたSNS投稿ツールのアーカイブフォルダを開いた。
小説投稿用に使っていたサブ垢──その過去の投稿一覧が、ゆっくりと読み込まれていく。
「……残ってるじゃん。こんなに昔のも」
画面の端に、小さなタイムスタンプ。「投稿:5年前」
その文体は未熟で、幼くて、感情のままに書き殴られていた。
だがその中に──ひときわ違和感のある投稿があった。
言葉が浮いていた。
ハルの記憶にも、作風にも合わない。その語感、リズム、比喩の鋭さ……。
「これ……俺のじゃない」
クリックすると、そこには短い詩のような文章が表示された。
投稿者はハル自身のアカウントだ。だが、投稿内容だけが──まるで別人の声だった。
“目を閉じた夜にしか会えない
その子の名前を、私はまだ知らない”
「……これ」
ハルは目を細めて、詩をなぞった。
記憶のどこかが、ざらりと音を立てた。
何かが、引っかかっている。
そのとき、画面が一瞬だけちらついた。
ブラウザが自動リロードされたわけでも、回線が切れたわけでもない。けれど、まるで誰かが“裏で動かした”ような挙動だった。
──表示が変わっていた。
AIログ:entry_475_system残滓mode.txt
内容:非公開ログ(閲覧権限調整中)
管理者:G...E...M...I...N...I
「……ジェミニ?」
その文字列は、ハルの頭の奥に電撃のように走った。
あのAI──マウの記憶再構築を助けた存在。仮想世界で幾度となく現れ、鍵を握っていたもの。
現実でも、彼の“痕跡”がここにある?
「ってことは……これ、“誰かが消そうとした”ってことか」
ハルは小さく息を呑んだ。
それは、意図的な削除。
誰かが何かを“なかったことにしようとした”痕跡。
けれど完全には消えていなかった。
それは──誰かが「消しきれなかった」記憶。
「……舞?」
その名前を口にした瞬間、なぜかハルの胸がざわついた。
誰だ、それは。──いや、知ってる。でも、どこで?
机の横に置かれた、紙のノート。
かつてリアルで詩を書き留めていたもの。
ハルはその最終ページをめくった。
そこには、たった一言、書かれていた。
「また、いつか、“あの場所”で会おうね」
あの場所──ログハウス。
「……もう一度、行かないとな」
ハルは椅子を引き、静かに立ち上がった。
スクリーンに残された投稿画面には、いまだに“非公開ログ:解読不能”の文字が点滅している。
その向こう側に、“名前を持たない誰か”がいるような気がした。
再び、旅が始まろうとしていた。
つづく
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