霧雨の記憶

蒼空 結舞(あおぞら むすぶ)

《僕の名前》

 霧雨が漂う森の奥、一人の青年が唸るように目を開いた。青年は辺りを見渡してふと思う。……自分は一体何者なのか、と。青年は霧雨の中で思い出す。

「そうだ、僕は乱麻らんまっていう名前だ。でも、それ以外……は」

 わからなかった。青年は自分の名前しか知らない。わかるのは一人称が僕で男だということだ。乱麻は痛む頭を抑えながら立ち上がろうとする。すると足を挫いたかのような感覚に陥った。足だけではない。身体中が傷だらけで、何があったのかさえ思う。

「どうしたんだろう……。僕になにがあったのかな?」

 乱麻は痛む右足を抑え、引きずりながら森を歩いていく。霧が晴れてくれば街が見えた。どうやらこの先を進んでいけば、街があるようだ。乱麻は自身を奮起させる。

「よしっ、右足が痛いけれど頑張るぞ。なんとかなるって思わないと」

 それから乱麻は右足を引きずりながら街を目指しふらつきながら歩いた。街に行くと良い香りが漂う。すると乱麻の腹が鳴った。乱麻は財布がないかどうかを確かめるが……小銭すらない。乱麻は息を吐き出す。

「困ったなぁ。どこかで食べさせてもらう代わりに、働かせてくれないかな?」

 足を引きずりながら乱麻は料理屋へ入り店主に尋ねた。店主はボロボロな乱麻の様相に驚いて、部屋へと招き入れてくれたのだ。店主は鏡のある部屋で救急箱を片手に乱麻の手当てをする。

 乱麻は自分の姿に少し興味を持った。茶色のくせ毛の髪に、藍色の瞳、身長は170センチ手前といった感じだ。顔としては微笑めば黄色い歓声が上がりそうである。店主が乱麻の右足を取り、湿布を貼付して包帯で巻く。

「大丈夫か、坊主? どこから来た?」

「えっと……わかりません。気づいたら、その、……森の奥に居て」

「森の奥って、あの迷いの森か!? よく無事でいられたなぁ……」

 店主が感心した様子で乱麻の手当てを終える。乱麻の腹の虫がさらに鳴る。店主が軽く笑んだ。

「ははっ、カネが無かったらここで働きな。俺は紫焔しえん。まぁ、食べてからで良いからさ」

「あ、はいっ! よろしくお願いします。僕は乱麻と言います」

「乱麻かぁ。よろしくな!」

 それから乱麻はここの中華飯店である福園ふくえんで料理を食べさせてもらっていた。肉まんはもちろん、青椒肉絲に麻婆豆腐などを食べさせてもらい、はじめは皿洗いから働いていた。それから乱麻はこの店で居座ることになる。紫焔が泊まらせてくれたからだ。それから数日が経ち、皿洗いからホールへと乱麻は移った。

 乱麻には秘密がある。乱麻は普通の人間ではない。だがそれを知っているのはある人間たちだけだ。

「オーダーです。ビールに、小籠包に海老ワンタンとチャーシュー麺です」

「はいよっ」

 それでも無慈悲に時は過ぎていくのだ。――彼の待ち人を知らずに。

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