2-b

 夏も終わりとはいえ、残暑の昼過ぎ。にもかかわらず、常に肌寒いほど冷やされた部屋。最低限の照明が点いただけの薄暗い部屋の主は、乱立する大型サーバーの中、その輪郭が部屋の中央に据えられた机に座っている。先ほど内線で呼び出した相手を待つためだ。主たる男は呼び出した相手が来るまでの間に口寂しくなり、机の引き出しから缶からを取り出すと、中をまさぐった。取り出されたのは、個別に包装された棒付きのキャンディである。


「パイナップル味か、いやだなあ」


 男が不満げに言うと同時、締め切った部屋の扉を叩く音が聞こえた。


「どうぞ」と男が手元のインターフォンへと語りかける。国立情報科学研究所の部屋は防音性が高いため、クーラーとの兼ね合いで男が勝手に扉に取り付けたものだった。男の声に応えて扉が開くと、残暑の蒸し暑さと憎らしげな陽の光が部屋の中へと差し込み机の手前まで届いた光条の散乱が男の姿を照らし出す。


「先生、お呼びですか?」


「ああ、タクミくん。頼みたいことがあるんだ」


 タクミに先生と呼ばれた男、前園ユウスケは、150キログラム弱ある巨体を揺らしながら、タクミに中へ入るように促した。


 ユウスケがタクミに語りかけたと同時、タクミの眉間にシワが寄ったのをユウスケは見逃さなかった。しかし、それを咎めようという気はおきない。ユウスケが学生だったころの指導教官は生徒との交流を最小限にする質だったが、それでもときたま頼まれ事をされるのは面倒だったことを覚えているからだ。そもそも、これからする頼み事は自分の負始末が原因ともなれば、礼儀など求める筋のないことを承知していた。


「あ、ドアは閉めて。冷気が逃げるからね」


 招きに答えて歩み寄るタクミに、ユウスケは申し訳無さそうに頼む。扉が閉められると、部屋の中には暗がりと冷気が再び湧いて出た。さて、と話を切り出そうとしたユウスケだったが、タクミが戸惑っている姿を見て、この暗がりに慣れているの自分ぐらいなものだったと思い出す。手元のスイッチで下からの備え付けのLEDランプが灯ると、数時間ぶりの光にユウスケのまぶたが細められた。薄目でタクミの姿を認めると、手招きをして机の前に呼び寄せるユウスケ。


「用事というのは?」


 呼び出してみたは良いものの、いざ言うとなるとためらってしまうユウスケ。煮えきらずに「ああ」だの「うん」だのと呟いていたユウスケに、タクミが痺れを切らして尋ねると、大の大人が恐る恐ると切り出した。


「実は研究室の、つまり学生部屋と作業室のことなんだけどさ。備品整理を頼めないかなって」


「なんですって?」


 乱暴に聞き返そうとして、無理やり丁寧語になおして尋ね返すタクミ。


「点検ならともかく、整理は学生のやることじゃないでしょう」


「まあそうなんだけどさ」


 と二重顎を掻きながら困り顔で言うユウスケ。備品が現存するかの点検はユウスケが学生の頃にもやった覚えがあったが、整理ともなると領分を超えるのは違いない。しかし、ユウスケにも言い分はあった。


「いやさ、僕も本当は自分でやりたいんだど、三階の暗号理論研究室あるじゃない。あそこが備品で買ったサーバーが壊れたからってこっそり自費で買い替えたの知ってる?」


 タクミは頷いた。数日前に昼食を食べていたとき、食堂でそんな噂がされているのを小耳に挟んだのだ。


「あれが出納室にバレてさ、リーダーが大目玉らしいんだけど、とばっちりで一斉監査があるらしいんだよ」


 その言葉に、タクミは納得した顔になる。そして、同時に自分の進路の心配が湧き上がった。ユウスケの研究室は備品以外にも自費で購入したと思われる機械類が所狭しと並んでおり、叩けばいくらでもホコリが出てきそうな有り様だったからだ。不安げなタクミの表情に、ユウスケは慌てて弁解する。


「もちろん、僕の研究室はそんなことしてないよ。自費購入したマシンもネットワーク接続する機器はMACアドレスを提出してるし」


「ならなんで整理なんか」


 タクミが尋ねると、ユウスケは気まずげに目をそらす。そして数拍黙ってから小さく呟いた。


「備品確認ちゃんとやったのが、その、三年前で」


 両手の指先を合わせながら困ったように言われた言葉に、タクミは気が遠くなる。ユウスケがだらしない人間であることは体型から見て取れたが、まさか管理業務もこなしていなかったとは夢にも思っていなかったタクミ。


「どうするんですか、ただでさえ去年は成果を出してないし、科研費だって通らなかったのに。これで不祥事なんか出したら、下手したら研究室解散ですよ」


 タクミの剣幕にユウスケは縮こまる。そして、少しでもタクミをなだめようと言葉をかけた。


「わかった、僕も手伝うから」


「手伝わない気だったんですか」と喉元まで出たタクミだったが、大きく吸った息と共に言葉を飲み込む。ため息を吐くと、座った目でユウスケに語りかけた。


「わかりました。自分は小物の整理をやるんで、先生は大物の起動確認と蔵書点検をお願いします。小物が終わったら自分も手伝うので」


「ああ、やってくれるんだ。ありがたいなあ」


 嫌味を言う気にもなれず、よいこらと立ち上がるユウスケを冷たく見るタクミ。その脇にキャンディの入った缶からが抱えられているのを見て、タクミの視線は温度をさらに下げた。しかし、浮かれたユウスケにはその感情を読めなかったようである。


「ああ、キャンディ食べる?」


「いえ、いらないです」


「そう言わずに、ほら」


 差し出されたパイナップル味のキャンディを見て、タクミは露骨に嫌そうな顔をした。


「いや、俺パイナップル嫌いなんで」


「そっか。実は僕もなんだよね」


「でも、一番安いセットだと入ってきちゃうんだよなあ」と文句を言いながらも嬉しそうにするユウスケ、彼を見るタクミの表情は味わい深いものになった。これでユウスケが本当に尊敬できない人間であれば、見捨てて転籍願いを提出するところだったが、これで人工知能研究の分野では名を馳せているのだから始末が悪い。本来指導してもらうはずだった、PSCHEフレームワークによる感情制御を行っていた教授が個人都合で急遽退官した際にいやいやながらも研究室を選んだ要因は、ユウスケの名声によるところが大きかった。


 しかし、モデルパラメータ解析の第一人者と言って良いほどのユウスケですら、年に二本の論文をかければよいほどである。既存アルゴリズムを元にしたAIの研究は完全に袋小路へと入っていた。


「先生はなんでAIの研究を?」


 今更の質問ではあったが、タクミは隣を歩くユウスケの暑苦しさに耐えかねて、気晴らしにと話しかける。「そういえば話してなかったけ」とユウスケはにへらと笑いつつ、話し始めた。


「真田さん、僕の師匠の先輩が言ってたんだけどさ、『研究者の倫理は研究対象への畏敬を保つことで生じる』んだってさ」


 懐かしそうな顔で宙を見るユウスケに気取られぬよう、半歩下がるタクミ。ユウスケは気付かずに続ける。


「でも僕は反対の意見で、研究者の倫理って対象への恐れを克服する過程で得られるものだと思ってるし、科学者はそうやって倫理を得ないといけないって考えてるんだよね。じゃあNNの怖いところって何かって言うと、『わからない』ことじゃない? 結局、NNの中身を直接読み解く方法論って見つかってないわけだからさ」


「はあ、そうですね」と気のない返事をするタクミ。しかし、ユウスケは構わず続けた。


「これは僕の持論なんだけど、NNの中に望んだような知性、つまり自我がなかったからと言って、認知がないとは限らないわけだし。だとしたら、自我のない認知が見る世界がどういうものか、ってのが僕の原点かなあ」


「まあ、研究を進めるうちに、パラメータ空間を説明しようとこねくり回すのが楽しくなっちゃんだけどさ」と子どものように笑うユウスケ。「なるほど」と相槌を打つタクミは、その実さして興味も持っていなかった。純粋に気を紛らわすための世間話だったからである。ユウスケもその気配を感じ取っていたが、タクミが現在の研究室を選んだことは不本意だったと知っていたため、特に何も言わなかった。


 ユウスケが黙っても、しばらくは彼の口の中のパイナップル味の香りがする空気が残暑の熱気と共に彼らの周りに纏わりついていたが、香りが霧散し切る前に彼らは作業室へとたどり着く。


 作業室の扉を開けると、機構全体で管理された空調によって冷やされた空気が溢れ出した。普段ならば適温の風も、汗に濡れた二人にとっては肌寒い。その寒い空気の中、二人は特に言葉も交わさずに作業を始めた。この整理作業の中でタクミを最も辟易させたのは、記録媒体の多さである。


 紙のメモなんぞは、中身がわかる上に備品との区別もつけないで良いので、塊ごとにひとまとめにして積み上げておけばとりあえず良い。困るのはHDDやSSD、VCDなどの二次記憶装置だった。十や二十ではきかない量のHDDやSSD、これらに関してはUSBの規格がAからEまで勢揃いしているという末法めいた光景を除けば、S.M.A.R.T.情報をチェックして、怪しいディスクについてバッドセクタをチェックすれば良いのでまだ楽である。問題はVDDだった。この一時期流行した、結晶の格子欠陥を後から制御することで大容量のデータを保存する(と謳われた)Vacancy Defect DriveはISOによる仕様の一致を見る前に廃れ、規格も何もあったものではない。内容チェックのために、タクミは読み取るための専用の物理ドライブを、小物の山から探し出さなくてはならなかった。


 タクミは苛立ちのあまり叫びだしそうになりながらも、「仕方ない、仕方ない」と言い聞かせつつ外部感情を注入しながら、VDDのための捜索時間とその他の機械的ツールのいくつかの動作確認の間に危険なHDDとSSDのセクタチェックを走らせる。数時間後には未検証のSSDが二本と入出力装置の見つからなかったVDDが一つ残る以外には、小物についての廃棄品の分別を無事終えたタクミ。残るSSDを最後に回したのは、管理番号が見当たらなかったからである。これまでの整頓でVDDはすべて私物であることがわかっており、SSDに関しても管理番号の振られたものはすべて整頓が終わっていた。どうせ私物なのだからチェックしなくても良いかと、タクミはユウスケに確認を取ろうとした。その顔がひきつる。


「何やってるんですか先生」


 もとより大物は神経パルスを外部から読み取るためのスキャナや、Raspberry Piで作られたタワー型のスパコンなど、数は多くない。実際、ユウスケは早々にチェックを終え、蔵書の点検を行っているはずだった。しかし、実際のユウスケは椅子に座りながら手に持った紙束を熱心に読んでいる。


「ああ、おつかれ。本に挟まってた論文が今読むと面白くてさ。つい読み込んじゃったよ」


「でも、LASの不正トークンの誤り訂正に関するヘルスチェック機能と人間の記憶想起メカニズムが」と言い訳をするユウスケを死んだ魚の目で一瞥すると、ユウスケがいた棚の逆から点検を始めるタクミ。それを見たユウスケは、慌てて自分も点検を始めた。


 一時間後、すべての作業が終わったというところで、タクミは残しておいた記憶装置について尋ねることを思い出す。


「そういえば先生、明らかに私物のSSDとVDDが未チェックで残ってるんですけど、どうします?」


「ん、どれ?」


 タクミが机の上にまとめておいた記憶装置を指差すと、ユウスケは笑顔で机に駆け寄る。シャツを盛り上げている脂肪の塊が波打つのを見て、タクミは更に疲れた気分になった。


「いやあ、懐かしいな。VDD、期待したんだけど、流行らなかったんだよね。どうしても記録が壊れやすくってさ、読み込みは高速なんだけど」


 笑って言いながら入出力装置を探し出すユウスケが懐かしいおもちゃで遊びだしそうになったのを察したタクミは、慌てて口を挟む。


「残りのチェックと、エラーが出たやつの処分はどうしますか?」


「ああ、壊れたドライブの処分はこっちでやっておくよ。チェックは、僕がやっても良いけど、一つはともかくもう一つは見覚えがないなあ」


「昔に買ったやつだからですか?」


「そんなはずないんだけど。だって、僕このメーカー嫌いだから買ったことないし」


 そう言って指さしたのは、黒いケースに入ったポータブルSSDだった。


「なら、それもらっても良いですか?」


 タクミがこう言ったのは、長時間の労働に対価を求めたことと、中身を確認したいという下世話な感情のためだった。尋ねられたユウスケは「他人のものだしなあ」と難色を示したが、型が古く20年は前のものであることと、最低限のタクミの倫理感を信じて、「ウィルスの危険性もあるし、あんまりいたずらはしないようにね。特に名前とか、最近うるさいから」と釘を差しつつSSDを手渡したのだった。


 その後学生部屋に戻ったタクミはSSDをネットに接続しないローカルの個人デバイスにSSDを接続する。


「いや、古すぎでしょ」


 思わず独り言が飛び出したのは、個人端末にドライバが入っていなかったからである。疲労感がタクミにのしかかるが、フラッシュメモリ経由でドライバをインストールすると、容量の9割以上が埋められていることが判明した。


「これは、ただの忘れ物じゃないな」


 好奇心を刺激されたタクミだったが、中を覗いてみると、暗号化されたディレクトリやファイルが並んでいる。このまま放り出そうかとの諦めがタクミを襲うが、疲労感が彼の判断力を鈍らせた。


「ここまで来たら、何としても中を見てやる」


 独り言の通りに実行するため軽く調査すると、ファイルはAESで暗号化されている事がわかった。これはかつて堅牢であると広く使われていたが、10年ほど前にmodified Simon's algorithmによる解法が見つかってからは急激に廃れた暗号化方式である。特に、量子コンピュータのアカウントレンタルサービスが一般化してからは、新時代のシーザー暗号とまで言われるほどだった。


「これなら」と呟きながら、個人端末をデザリング経由でネットに繋ぎ、無料の量子コンピュータサービスを通じて暗号化を解除するタクミ。memoと書かれたテキストファイルを見ると、プロジェクトを一つ、まとめておいたSSDのようだった。テキストファイルに書かれていたプロジェクト名は。


「ええと、潜在解析を通じて最適化された、情報の付加されたダクトモデル。変な英語だな」


 そのすぐ後ろに括弧書きでつけられた略称を、タクミは読み上げる。


「略称は、IDOLA?」

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