第5章 失われた息子の記憶
「心のお手伝いさん」になってから一週間が経った。
僕たちは放課後に質屋に立ち寄るようになり、店主と一緒にお客さんのお手伝いをしていた。でも、まだ本格的な仕事を任せてもらったことはない。主に、お客さんが緊張しないよう雰囲気を和ませる役割だった。
「今日は誰も来ないのかな」小野さんが店の中を見回した。
「平日の夕方は比較的静かですからね」店主が棚を整理しながら答えた。「でも、本当に困っている人は、時間に関係なく現れるものです」
その時、僕は気になることを口にした。
「店主さん、あなたの息子さんのこと、もう少し教えてもらえませんか?」
店主の手が止まった。
「なぜそれを知りたいのですか?」
「僕は、その人への愛から生まれたんですよね。だったら、その人がどんな人だったのか知りたいんです」
青木くんと小野さんも、興味深そうに店主を見つめた。
店主は長い間沈黙していたが、やがてゆっくりと口を開いた。
「遼太郎…それが息子の名前でした」
僕の心臓がドキンと跳ねた。
「君と同じくらいの年でした。明るくて、好奇心旺盛で、いつも『お父さん、これは何?』『どうして空は青いの?』と質問ばかりしていました」
店主は棚の奥から、一つの小さな箱を取り出した。古い木でできた、手のひらサイズの箱。
「これは、私が最後まで手放せなかった『遼太郎への愛』です」
箱を開けると、中から温かい光が溢れ出した。金色で、とても穏やかな光。
「美しい…」小野さんがつぶやいた。
「この愛から、月村くんが生まれました」店主は僕を見つめた。「でも、君は遼太郎の代わりではありません。遼太郎への愛そのものが形になった、全く新しい存在なのです」
僕は箱の光を見つめていた。この光が僕の始まり。
「遼太郎くんは、どうして…?」
「白血病でした」店主の声が震えた。「私は医者だったのに、自分の息子を救うことができませんでした。最後まで、遼太郎は私に『大丈夫だよ、お父さん』と笑いかけてくれました」
店の中に静寂が流れた。
「それで、この質屋を始めたんですね」青木くんが静かに言った。
「そうです。多くの患者を救ってきたのに、一番大切な息子を救えなかった。その後悔と愛情が、この質屋を作ったのです」
店主は僕の前にしゃがみ込んだ。
「月村くん、君が生まれた時、私は信じられませんでした。遼太郎がまた私のそばに戻ってきてくれたのかと。でも違いました」
「違う?」
「君は遼太郎ではない。君は、私の愛が生み出した、全く新しい存在なのです。遼太郎の記憶も性格も持っていない。君だけの人生を歩んでいる」
僕は混乱していた。
「でも、僕の記憶は…家族は…」
「君が生まれる時、君にふさわしい環境も一緒に生まれました。君を愛してくれる家族、君が成長できる場所。それらは全て、君のために用意されたものです」
「僕は…人間なんですか?」
店主は優しく微笑んだ。
「君は愛から生まれた人間です。普通の人間と何も変わりません。ただ、その始まりが少し特別だっただけです」
僕は胸のポケットの鈴を取り出した。
「この鈴も?」
「それは遼太郎が大切にしていたものです。君が生まれる時、一緒についてきました。遼太郎からの贈り物かもしれませんね」
鈴を振ると、いつものように澄んだ音が響いた。でも今日は、その音がとても温かく感じられた。
その時、小野さんが口を開いた。
「店主さん、一つ質問があります」
「はい」
「月村くんが生まれた後も、遼太郎くんへの愛は残ってるんですか?」
店主は少し驚いたような顔をした。
「どういう意味でしょうか?」
「だって、愛を質に入れて月村くんが生まれたなら、元の愛はなくなってしまったんじゃないですか?でも、今もこうして遼太郎くんのことを話してくれる」
僕と青木くんも、小野さんの質問に注目した。
店主は長い間考えていたが、やがて微笑んだ。
「とても鋭い質問ですね。実は…」
店主は箱を見つめた。
「愛というものは、分けても減らないものなのです。私の遼太郎への愛は、月村くんという形になったけれど、私の心からは消えていません。むしろ、月村くんという新しい存在を通して、その愛はより大きくなったのかもしれません」
「じゃあ、僕は…」
「君は、愛の延長線上にいる存在です。遼太郎への愛から生まれたけれど、今では君自身への愛も生まれている」
僕は胸が温かくなった。
「ありがとう」僕は立ち上がった。「僕、決めました」
店主と二人の仲間が僕を見た。
「僕は月村として生きていきます。遼太郎くんの代わりではなく、あなたの愛から生まれた、僕自身として」
店主の目に涙が浮かんだ。
「ありがとう、月村くん」
その時、店の扉が開いた。入ってきたのは、30代くらいの女性だった。疲れた表情をしていて、大きなバッグを抱えている。
「すみません…この店で間違いないでしょうか?」
「はい」店主が立ち上がった。「いらっしゃいませ」
女性は周りを見回し、僕たちに気づいた。
「あの、お子さんたちもいらっしゃるんですね」
「私たちは、この店のお手伝いをしています」小野さんが優しく言った。「何かお困りのことがあれば」
女性は少しほっとしたような表情を見せた。
「実は…」女性はバッグから古いぬいぐるみを取り出した。うさぎのぬいぐるみで、かなり使い込まれている。
「これを預けたいんです。娘が小さい時に、いつも一緒に寝ていたものです」
「お嬢さんは?」店主が優しく聞いた。
「事故で…3年前に」女性の声が震えた。「このぬいぐるみを見るたび、娘が最後にどんなに痛かっただろう、苦しかっただろうって考えてしまって。でも、もう辛くて…」
僕は胸が苦しくなった。また、大切な人を失った人が来たんだ。
小野さんが前に出た。
「よろしければ、お話を聞かせてもらえませんか?一人で抱え込まずに」
女性は涙を浮かべながら頷いた。
僕たちは女性を囲んで座り、ゆっくりと話を聞いた。娘さんとの思い出、事故のこと、それからの3年間のこと。
話を聞いているうち、僕は気づいた。この人の痛みは、店主が遼太郎くんを失った時の痛みと同じなんだ。
そして、僕たちにできることがあるかもしれない。
「お母さん」僕は女性に声をかけた。「娘さんは、きっとお母さんに幸せでいてほしいと思っていますよ」
女性は僕を見つめた。
「でも、私が幸せになったら、娘のことを忘れてしまいそうで…」
「忘れません」青木くんが言った。「愛は忘れるものじゃないから」
店主が頷いた。
「愛というものは、分けても減らないものです。お嬢さんへの愛は、お母さんが幸せになっても消えることはありません」
女性は長い間考えていたが、やがてぬいぐるみを店主に差し出した。
「少しの間だけ、預けてもらえますか?」
「もちろんです」
ぬいぐるみが光って、鏡の中に吸い込まれていく様子を見ながら、僕は思った。
愛は分けても減らない。店主の遼太郎くんへの愛も、この女性の娘さんへの愛も、きっと永遠に続いていく。
そして僕は、その愛の一部として生まれた。
それなら、僕にできることは、その愛を他の人にも分けてあげることかもしれない。
女性が店を出て行った後、僕は店主に言った。
「ありがとうございました。遼太郎くんのことを教えてくれて」
「こちらこそ。君がいてくれて、私の愛はより大きくなりました」
家に帰る途中、僕は鈴を振った。
澄んだ音が夜空に響く。
「ありがとう、遼太郎くん」
心の中でそうつぶやくと、鈴がもう一度、優しく鳴った。
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