送り犬では無く、
ひととせ
上
母曰く、私が産まれて間もない頃の事。
□□□
当時、私達家族は、木造の狭いアパートで暮らしていた。パチンコ店でアルバイトをしていたらしい父と、家事と育児に翻弄される母と、ただの赤ん坊である私の三人家族だ。
どうやら父は子供に無関心だったようで、数少ない家族写真を見ても、父が私を抱いている姿は残されていなかった。おそらく言葉を話さない生き物への接し方が分からなかったのだろう、と母は語る。
……子供として言いたい事は山程あるが、ともかく若い母は、一人で赤ん坊の相手をしていた。
その日の晩も、母は夜泣きする私をあやす為、近所の公園へ出掛けたという。
ぎゃあぎゃあ泣き喚く私を背負い、まだ薄ら寒い四月の夜風に吹かれる母は、精神的に参っていた。
朝から晩まで泣き止まない赤子と、酒を飲んで帰ってくる父。そして溜まり続ける家事に追われ、どこかへ逃げ出したくなったらしい。それはそうだろうと、当時迷惑を掛けてしまった子供の立場でも思う。
母は、どうすれば泣き止んでくれるのだろうかと困り果て、泣きそうになった時……ふと、背中に視線を感じたらしい。
振り返ると、広葉樹の根本に犬が居た。
夜闇から不自然に浮いて視える真っ白い毛皮と、淡い緑色の瞳を持つ大型犬だ。野良犬にしては小綺麗だが、飼い主らしき人物は見当たらない。そもそも深夜一時を過ぎていて、散歩をするような時間帯でも無い。
謎の犬は、瞬きもせずに、ジッと母を見つめていた。
数秒程の余白を開けてから、母は努めて明るい口調で問い掛けた。
「こんばんはぁ、こんな時間にどうしたの?」
母は、その犬に近付き挨拶をした。
昔からそういう人である。散歩中の小型犬や野生のカラス、果ては使い古した冷蔵庫にも話し掛け、子供の所有していたぬいぐるみにも毎日挨拶をする性分だ。
それはそうと、当たり前だが、犬は返事などせず、母に向ける視線は相変わらずだった。
「夜の散歩? 私はこの子が寝てから帰るつもりだけど、アンタはどう?」
それでも、母は背中の私をあやしながら、謎の犬に話し掛けるのを止めなかった。
昼は家事と赤ん坊の相手をして、夜は父の愚痴に付き合わされていた母は、誰かに自分の話を聞いて欲しかったのだろう。夜中なので声を抑えつつも、日頃の愚痴や愉快な出来事をペラペラと語り掛けたのだという。
不思議な事に、その犬はずっと母の話に付き合うように移動しなかった。頷く事も合いの手を入れる事も無いその姿は、地蔵のようだったと、母は語る。
長々話し、三十分より少し長く経ち、いつの間にやら赤子の泣き声は止んでいた。それに気付いた母は「あら!」と驚いて立ち上がる。
「この子ったら、寝たなら教えてくれても良いのに、ねぇ?」
無茶な事を、意味もなく犬に同意を求めるも、うんともすんとも返ってこない。
そんな些細な事でも何故だか面白くて、母は久しぶりに笑った、らしい。
「……話、聞いてくれてありがとう。アンタも早く帰りなよ」
母は犬に礼を述べる。「よいしょ」と掛け声と共に私を背負い直し、母は犬と別れ、帰路に――
「わん」
――背後からの妙な声に、母は足を止めた。振り返るも、そこには先程の犬しか居ない。
しかし先程のソレは、犬の鳴き真似をした人間の声にそっくりだったのにと、母は考え……無理やり思考を止める。
犬は相変わらず根本に居たが、母が止まったのを確認すると、ゆっくりと動き出す。
犬が向かった先は、公園に二ヶ所ある出入り口の、東側だ。それは母が来た時に通ったのとは別の出入り口で、帰るべき木造アパートに向かうには遠回りとなってしまう。
困惑して動かない母に気付いたのか、犬は出入り口付近で歩みを止めて、また彼女を見つめる。
着いて来い、と犬に言われている気がして、母は悩んだ。
少しでも早く帰った方が良いに決まっているが、自分の話を聞き続けてくれた犬を無碍にするのは、少々心が痛む。
そもそも、この犬は野良犬なのだろうか? もし飼い犬なら、近所で捜索中かもしれないし、それなら飼い主の元へ連れて行かなければいけない気がする……等々。
……結局、母は私を背負ったままだというのに、犬の後ろを着いて行く事にしたという。
しかし母が悩んだ意味も虚しく、ただ公園の外周を、ゆるりと進む犬に合わせて歩いただけであった。
ならば早く帰って眠れば良かったかもしれない、と睡魔に負けそうになりながら、母は欠伸を漏らした。
見上げてくる犬は黙ったままで、先程の不気味さは一切無く、夢でも見ていたのだろうと思ったらしい。
「……お散歩着いてっちゃってごめんねぇ。私の家、ちょうどこの辺りだし、そろそろ帰るよ。じゃあね」
犬は口を開かず、瞬きせず、微動だにしない。
しかし眠気が勝った母は、ちょっと変な野良犬なのだろうと結論付けた。後日、近所の交番に相談すれば良いだろうと、ぼんやりと考える。
しばらく犬は静かに母を見上げていたが、やがてゆっくりと、夜闇に紛れるように歩き出す。
「アンタも気をつけて帰りなよー」
消えていく犬の背中に声を掛けてから、母もまた、のんびりと木造アパートへ帰ろうと歩き始めた。
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