2試合目:種馬(タネウママ)って呼んでいいですか?

体育館に響く、ボールを叩く音。床に反響するスニーカーのキュッという音。


汗と熱気と、どこか気だるげな空気が混ざり合って、五月の午後を曇らせている。


 


 京子は壁際に腰を下ろし、軽く膝を抱えながら、コートの中央をぼんやりと眺めていた。


 男子チームがバレーの試合をしており、その中でひときわ真面目な顔をしているのが、八坂明だった。


 彼は、ボールを高くトスされると同時に、大きく一歩踏み込んで——


 


 「はッ!」と小さく気合を込めながら、軽やかに跳んだ。




 スパイク。思い切りよく振り抜かれた右腕から放たれた白球は、ネットの向こう側へまっすぐ叩き込まれる。




 床に当たった瞬間、乾いた音が体育館に響き渡った。




 「うっわ、すげー」「ナイスアタック!」




 仲間の男子たちが盛り上がり、ハイタッチを交わす。


 京子は目を細めた。




 (……バレーが上手いのね。なんか腹立つわ……)




 なんとなく不愉快な気分になりながら、京子は靴紐を指でいじり、遊ぶ。


 汗まみれの男子の群れに混ざって、無駄にいいフォームで飛んでる明の姿が、視界にチラついて仕方ない。




「あ、門真さん。靴紐ほどけてるよ!」




 クラスメイトの女子が、満面の笑みで声をかけてきた。




「え? あ、うん。ありがとう」




 靴紐がほどけていたのは気づいていた。でも、言われたとおりに結び直す。


 彼女はにっこり笑って、友達グループの輪へ吸い込まれるように戻っていき、何事もなかったかのように雑談を再開した。




 (……昨日の晩は、あの男のせいで気分がざわついて寝つけなかったわ)




 京子は、昨日の放課後を思い出していた。


 パソコンを交代しながら、とりとめのない会話を交わして、なんとなく一緒に時間を過ごして、そして何もなく帰った。


 それだけの出来事が、今も頭の片隅にまとわりついて離れない。




 京子にとって、男子との会話なんて本来、ただのノイズだった。今まで話しかけてきた男は、全員目つき、間合い、言葉の端々——ぜんぶ下心が透けて見えた。


 「何かを期待してます」って顔で、特に用もないくせに話しかけてくる。その目線、その必死さが、とにかく気持ち悪かった。




 だから、暴言で黙らせてきた。期待も下心も幻想も、まるごと叩き潰して。


 黙った男の顔を見るたびに、ああ、また一人片付いたって思ってた。




 しかし、八坂明は——まるで別物だった。


 京子の毒にも一切動じず、どこまでも平然と、対等に会話してきた。その目にも、仕草にも、言葉にも——下心というものが一切見えなかった。




 それが妙に心地よかった。 会話を思い出すたびに、胸のどこかがざわつく。 そして昨夜は、結局ろくに眠れなかった。




「八坂くん、かっこいいよね~」




 すぐ近くで、女子グループの声が弾む。


 京子は誰にも見えない角度で、口の端をニッと持ち上げた。




(ふーん……この子たち、知らないのね。


 私はもう、あの男と“対等”に、雑談してるんだけど?)




 謎の優越感がじわじわと胸に広がっていく。


 京子は、体育館のコートでプレーする明の姿を目で追った。




「それに、めっちゃ話しやすくない?」


「わかる~! なんか、優しいよね!」




 (……は?)




 優越感が、一瞬で蒸発した。


 代わりに湧いてきたのは、よく分からない怒りと、どす黒いモヤ。




 (なによそれ。誰にでも話しかけてるの? 


  転校して二日目で、その社交力? なに、繁殖本能で動いてんの?


  産めよ増やせよの……種馬じゃない)




 男子からタオルを受け取りながら笑っている明が目に入る。  


 京子の表情から血の気が引いていった。




(誰でもよかったの? ……見損なったわ。


私みたいな天才美少女の価値がわかっての態度だと思ってたのに)




 門真京子は、嫉妬していた。もちろん本人がそれを認めるわけがない。




* * *




 のどが渇いた京子は、自販機の前にいた。指が自然にスポーツドリンクのボタンを押そうとしたとき、とあるジュースが目に入る。  




 ゼロカロリーコーラ。何も考えていないようで、意外と芯のありそうな喋り方をする男の姿が脳裏に浮かんだ。




(……これ、あの男が飲んでたやつ)




「いや、別に飲みたいとかじゃないわ。糖分控えたいだけよ」  




 手を伸ばしかけて——。




「お、いいチョイスですね」




 びくりと肩が跳ねる。まるでホラー映画のジャンプスケア。背後にいたのは、まさしくその張本人・八坂明だった。




「門真さんもゼロカロリーコーラ派なんですね」




 なんと返せばいいか分からない。皮肉か、暴言か⋯⋯そもそも話しかけるべきなのか。


 頭がパンクする前に、口から自然に言葉が出た。




「……なに?  あなた、ストーカーなの?」


「違いますよ。ただ、同じのを買いそうで、思わず話しかけちゃいました。仲間が少ないんで」




(その顔で言うな)




 明は火照った顔で、シャツの襟元をパタパタと仰いでいた。うっすら光る鎖骨が目に入り、京子は一瞬だけ言葉を失う。




(な、なにその無防備……まさかゼロカロリーコーラって、無自覚スケベを生成する飲み物なの?)




 ぼうっとしている間に、明は自分のお金でゼロカロリーコーラを購入。がちゃんと落ちた缶を開けて、ゴクゴク飲む。




「あなたの生きがい、安くて羨ましいわ」


「だって美味しいんですもん。あ、門真さんもどうぞ」




 明が屈託のない笑顔で缶を差し出してくる。京子は催眠術にかかったみたいに、ぼんやり受け取ってしまった。




(まさか、間接キス狙い? いや、まさかね? ……でも、あれってもうほぼ唇の接触でしょ?)




 思わず唇を触りそうになる。




(え、なに? あのスパイク連打って、そういう……抑えきれないフラストレーションの発散? ……ほんとに種馬じゃない?)




 胸がドキドキし、腕が震える。だが缶は確実に口に近づきーー。




「お、ストローありました」  




 明が紙コップ自販機の横からストローを取り出して渡してくる。




「……」


「どうぞ、ご遠慮なく!」




 さっきまで暴走していた妄想が急速に冷え、京子は俯いた。




(そういうとこ、ちゃんとしてるのね……ほんと、なんであなたって、下心ゼロなのよ)




 明の目は、純度100%の、下心ゼロな瞳だった。


 ただ心から、京子にコーラを飲ませたがっているだけの目。




(……お母さんか)




 幻覚の中でエプロン姿の明が見えたが、自分でツッコむ前に打ち消す。




(あなたは、タネウママだったのね)




 おそるおそる、コーラをひとくち。




(……これが、ゼロカロリーコーラ……)




「……プラスチックの味がするわね。衛生管理、どうなってんのこの学校」


「それ、ストローのせいじゃないですか?」




 明がくすっと笑って、体育館の方へ歩いていく。




(なんなのよ、こんなゴミ残して……)




 京子は缶を見つめる。




(……あんまり雑談、できなかったな。べつに、したいわけじゃないけど)




 そのとき。




「門真さん、また後で!」  




明が振り返りながら手を振り、駆け出していった。




「——また、後で? ……その言葉、普通に言うの?」


 


缶をぎゅっと握りしめる。




「……人生で初めて言われたかも」




 門真京子、今日も静かに、敗北した。

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