第26話 九江のBaby
一八八八年 早春。九江のイギリス租界。
ここは租界だというのに漢口や天津、上海とはかなり違う。
素朴で何処かのんびりとしている。
つまり租界にしては「田舎」だった。
南には有名な山──「
とはいえ「租界」である以上、ここも河のほとりで、近くには長江が蛇行し、河岸には柳の木々が搖れていた。
天津のビクトリア・ロード沿いに整然と並んでいた煉瓦造りのビルもあまり見かけない。
代わりに木造、石造りの低層の建物が清国の古い街並に溶け込むかのように、点在している。
当世流行りのガス燈も多くはなく、夜になれば揺らめく提灯の灯が路地を照らし、焼き魚や薬膳料理の香りが漂う。
九江は、イギリス人の住む小さな洋館や、ささやかなカフェが、清国人の屋台や茶店と程よくブレンドされた、小さいが美しい「モザイク飾り」のような土地──イギリスやその他外国商人も、その中に無理なく馴染んでいた。
「日本人街」と言われるような場所もなく、天津のような「日本互助会」の会館もない。
そんな九江の片隅に建つ、簡素な二階建ての洋館に「
洋館は天津の白壁とは違う、陽に焼けた黄土色の壁で、窓辺には前の住人が置いていったらしき
「商会の看板を掲げた」と言っても、この地に来てからの原田左之助は、まだ仕事らしい仕事に手をつけていない。
──小さな租界の、簡素な家に移ったとはいえ、金はあるのだ。
今までの商売で貯めた金は上海の銀行にしっかり預けてある。
そして原田は仕事をする代わりに、なぜか日なが一日、何処からか送られてきた何通もの手紙をじっと睨むように眺め、時々溜め息をつくばかりだった。
「原田」
「……ああ?」
「なあ。原田」
「…………」
「なあ…て」
山崎烝が話しかけようが、原田は上の空だ。
そんな山崎はといえば──すっかり小さな「幼児」の姿となっていた。
天津で出た全身に痛みを伴う熱がようやく下がった時。
身長は20cm近くも縮んでいた。
更に丸みを帯びた顔。
ぷっくり膨らんだ桃色の頬。
黒い瞳が光を映す大きな目。
眉はふわりと薄く短く、小さな鼻はツンと上を向いている。
肌の色は透き通るような白にピンクが差していた。
手は小さく、指も爪も短く細く薄くなり、同じように短くなった足も膝やくるぶしが丸みを帯びている。
「……………………」
壁にかかる鏡を無言で、ただ見つめる。
日本人の子供なら、やっと七歳ほどの身体だろうか。
この姿では天津に居ようが、誰も自分を元の自分──「学校に通っていた進」だとは思うまい。
友達の「
だから、天津を出るしかなかった。
九江に来てから、ジャケットや半ズボン、シャツやベストなど、無理に何着も仕立て、ハンティング帽やベレーまで新調して
ますます細く柔らかくなり、少し伸びてウェーブがかかってきた髪は、首もとを
山崎はその髪を、昔、浅草に住んでいた時のように「短く切ってくれ」等とはもう、言わなかった。
山崎の心の中で「誰か」の
(ねえ?)
なんや。誰や。うるさいな。
(なんでお外に出ないの?つまらないよ。
お外に出ようよ。きっと面白いよ?)
こないな身体で一人、出られるわけないやろ?外なんぞ。
原田は何や最近ずっと手紙ばかり読んどるんや。
(大丈夫だよ。
家からすぐ近くに行くだけなら。
ねえ。お外に出ようよ!
お前が嫌でも連れていくよ?
だって、退屈なんだから!)
山崎は机上の手紙を睨む原田をチラリと見ながら、「声」に引かれドアを開けた。
ドアの外の空地には黄色い菜の花。
ピンクの緋寒桜、紅や白の梅も咲いている。
『わあ!きれい!』
心の中の山崎ではない「誰か」が山崎の声を使って無邪気に叫んだ。
『きれい…きれい…きれい!』
(おい!お前、どこまで走って行くんや!
あんまり遠くに行ったら……
止まれ!帰るんや!)
「!」
「誰か」に引かれ走っていた「山崎の小さな身体」は、何処かのショーウィンドウの前で立ち止まる。
そこで山崎自身の意識が動いた。
(タルトや。苺の。
フルーツタルト、ビスケットもある……)
※※※
長江に注ぐ小さな支流沿い、「
カフェを経営しているのは五十代のイギリス女性──Mrs.エリザベス・コリンズだった。
木造の店内には天津のカフェようなビクトリア朝の華やかさはないが、素朴な花柄のカーテン、白いテーブルクロス、カウンターには焼き立てのスコーンと紅茶が漂う。
ミセス・コリンズは袖口がレースで飾られた花模様、ラベンダーのドレスに白レースのエプロンを翻し、忙しく働いていた。
が、ふと硝子の
『あら、まあ。なんてこと!』
ミセスは声をあげた。
※※※
山崎烝は、ローズ・ティールームのショーウィンドウの前でしきりと考えていた。
(タルトもビスケットも贅沢なフルーツ使っとるのに、天津のカフェより随分と安いんやな。
客層は
この店、地元の清国人は入れるんやろか……)
その自分の身体が、いきなり抱き上げられた。
「?!」
『可愛らしい子!まるでお人形みたい。
だけどこんな小さなベイビーが一人で歩いているなんて……迷子だわ!』
(……え?)
『日本人の子ね。
「
おおべイビー!怖かったでしょう?
でも、もう大丈夫よ?
今おばちゃまがね、パパの所に連れていってあげるわ!」
ミセスは山崎の丸い頬にキスをして、しっかり抱え直すと、店の奥で働く清国人の店員に
「ちょっと店番お願いね?」と叫ぶが早いか、早足で「
(俺、俺。迷子ちゃう!)
『Um…Ma…Madame! I'm not babe…!』
あまりよく回らなくなってしまった舌を使い必死に英語で語りかけるも、ミセスの耳には
『まあ、随分しっかりお話ができるのね。偉いわ!
え?もう赤ちゃんじゃない?
そうね。
あなたぐらいの年頃の子はね、皆そういうのよ?』
ミセスの腕の中でジタバタしようが、小さな身体はふくよかな腕でしっかりと固定され、逃げられない。
通りすがりの清国人の屋台の主人やイギリスの婦人がそんなミセスに声をかけてきた。
『可愛い子だねぇ、ミセス!』
『どうしたの?迷子?』
『I'…I'm not baby! madame!』
ミセスは「
「……はい。え?!」
シャツの袖を捲り「手紙」を手にもったままの原田は、目の前の光景に一瞬呆然とした。
ミセスはそんな原田に山崎を抱えたまま、こう まくし立てた。
『Mr.マツヤマ?
このベイビー、貴方のお子さんよね?
うちのカフェの前に一人で居たの。
でも、こんなに小さな子を一人で歩かせるなんて!
九江の租界だってそこまで安全だとは限らないのよ?
ほら。しっかり見ててあげなさい?』
ミセスは山崎を原田の腕に押しつけた。
「俺、迷子ちゃう!
ただちょっと外に出て、タルト見てただけや!」
原田は自分の腕の中でそう叫ぶ山崎をよそに、ミセスの勢いに押され謝罪した。
『み、Mrs.コリンズ、ありがとうございました!
ええ、確かに私の息子です。
ちょっと目を離した隙に……
こ、この子の母親、つまり私の妻は亡くなってしまいまして……申し訳ありません。
これからは気をつけます!』
山崎を抱いたまま、丁寧に頭を下げる。
ミセスは満足げに
『可愛いお子さんは、ちゃんと見ててあげてね!
そう。そうしたご事情がお有りなら、良いベビーシッターもご紹介しますことよ?』
※※※
応接室に戻った原田は、山崎をソファに降ろすとフゥ、と息をついた。
「悪かったな、山崎。
最近いろいろ考え事をしててよ。
だがまさか、おめェが100m先のカフェにいくだけでこんな騒ぎになるなんざ……」
山崎はソファで膝を抱え、何とも言えない表情で言った。
「俺、七つぐらいの身体になったんやとばかり思うとった。
けど
『
原田、お前は俺が何歳ぐらいに見えとるんか?」
「お前の言う通り、七歳ぐらいにゃ見えるよ。ちゃんと。
まあ、あのMrs.コリンズは別に悪い人じゃねェ。
次は俺も一緒にMrs.のカフェ行くから、タルト食おうぜ?」
原田は山崎の機嫌を取るようにそっと頭を撫でた。
「カフェに行くのは構わん。
けど、あの時はタルトを見てただけなんや。
俺、迷子ちゃうのに。
カフェのオバちゃん、勝手に抱き上げよって……」
山崎はそう言いながら顔を少ししかめたのだが、同時に原田の手の温もりに、奇妙な安心感を覚える「心の中のもう一人」の存在を確実に感じていた。
山崎は、もう頭を撫でる原田の手を振り払うようなことはしなかった。
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