第六章:名前のない花

 ある日の閉店後、わたしはカウンターの隅に座りながら、硝子越しの雨を眺めていた。

 柔らかな雨音が、心の隙間をなぞるように静かに響く。

 いつもなら無言のまま作業を続ける紗良が、ふと、ぽつりと呟いた。


「……昔、この店には、もうひとりいたの」


 わたしは顔を上げた。

 紗良は、棚に並ぶコーヒーカップを磨きながら、まっすぐ前を見ていた。


「わたしの親友。……いや、親友だなんて言葉じゃ、足りなかった。

 彼女と一緒にこの場所を始めるはずだった。『花硝子』って名前も、彼女がつけたんだ」


 その声は、淡々としていた。

 でも、その静けさの底にあるものを、わたしは感じ取っていた。


「彼女は、花が好きだった。

 特に名前のない、野に咲くような雑草みたいな花をよく拾っては、瓶に挿して……。

 “名もないからこそ、自由で、綺麗なんだよ”って、よく笑ってた」


 紗良の指先が、カップの縁をゆっくりとなぞる。

 その仕草は、誰かの記憶を撫でるように優しかった。


「その彼女が……突然、いなくなったの。何も言わずに。

 病気だったとか、事故だったとか、そういうわかりやすい理由じゃない。

 ある日、何もかも置いて消えて……それっきり。今でも行方はわからない」


 言葉が、少しだけ途切れた。


「わたし、何も知らなかった。

 一番近くにいたはずなのに、何も気づけなかった。

 あの時、もし、なにかひとつでも違っていたら――って、何度も何度も考えた」


 目の前の紗良が、ほんの少しだけ、俯く。


「その人を、わたしは……たぶん、好きだった。

 でも、伝えられなかった。怖くて。壊れるのが、怖くて。

 そして、伝える前にいなくなった」


 心臓の奥が、きゅっと締めつけられるようだった。

 彼女の背負っていたものが、ようやく言葉になった瞬間だった。


「だから、今も……誰かに“好き”って言われると、怖くなる。

 また、同じように失うんじゃないかって……」


 その声は、今にもかすれそうだった。

 でも、それでも紗良は、ちゃんと目を逸らさずにわたしを見ていた。


 わたしは立ち上がって、カウンター越しにそっと手を伸ばした。

 彼女の手に触れることはできなかった。

 ただ、そのほんの手前で、静かに言った。


「わたしは、いなくならないよ」


 その言葉に、紗良の目が大きく見開かれる。


「好きになってくれなくてもいい。忘れられない人がいてもいい。

 でも……わたしはここにいる。ちゃんと、“今”の紗良と、向き合いたいから」


 長い沈黙のあと、紗良はゆっくりと目を伏せた。

 硝子細工のように壊れやすい沈黙が、店内に降り積もる。


 けれどその沈黙は、もう拒絶ではなかった。

 たとえすぐに届かなくても、そこに“開かれた隙間”があるように思えた。


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