第四章:雨の午後に
空が濡れた紙のような灰色に染まり、街の輪郭がすべてぼやけて見えた。
春の終わりにしては冷たすぎる風が吹き、わたしは傘をさすのも忘れて、ただ歩いていた。
理由なんてなかった。
でも、気づけばわたしの足は、あの喫茶店の前で止まっていた。
硝子戸の向こう、ランプの明かりがいつもより少しだけ滲んで見える。
引き戸を開けると、カラン、と鈴の音が鳴った。
「……柚希?」
紗良が顔を上げる。
雨で濡れた髪を気にしてわたしが笑うと、彼女もほんのわずかに目を細めた。
「今日は……なんとなく、来たかっただけ」
そう言ってカウンターの端に腰を下ろすと、紗良は無言でカップを準備し始めた。
いつものように、丁寧な手つきで豆を挽き、湯を注ぎ、香りを立ちのぼらせる。
その動きのすべてが、何かを祈る儀式のようで、わたしは目を逸らせなかった。
静かな雨音と、珈琲の香りだけが満ちる空間。
やがて、カップが一つ、そっとわたしの前に置かれる。
「今日のは、少しだけ、甘いかも」
彼女がそう言った時、なぜだか胸の奥がじんと熱くなった。
それは、わたしの好みをまだ覚えていてくれたということ。
それとも、自分から少しだけ歩み寄ろうとしてくれたということ。
――どちらにせよ、わたしには十分だった。
「ねぇ、紗良。わたし、しばらくここで手伝ってもいい?」
言ってしまってから、少しだけ後悔した。
この距離を、また壊してしまうかもしれないと。
けれど紗良は意外なほど、あっさりと答えた。
「……朝は早いよ。ちゃんと起きられる?」
それは、拒絶ではなかった。
遠回しな拒否でも、やさしい追い返しでもなかった。
思わず笑ってしまう。
「たぶん、がんばる」
そう答えると、紗良は静かに頷いて、背を向けた。
それでも――その背中から感じる空気が、どこか柔らかくなった気がした。
外では雨が降り続いている。
けれど、店内にはほんの少しだけ春の名残のようなぬくもりがあった。
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